今日は「や」の気分

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【感想】【小説】『東京×異世界戦争 自衛隊、異界生物を迎撃せよ』

東京×異世界戦争 自衛隊、異界生物を迎撃せよ (電撃文庫)

東京×異世界戦争 自衛隊、異界生物を迎撃せよ (電撃文庫)

 面白いけど、色々物足りない作品。

 読み始めてすぐに気がつくのが「シンゴジラ✕ゲート」という組み合わせ。ゲートの展開を下地にシンゴジラ手法を取り入れたというのが正確か。緻密な自衛隊描写により情報を摂取する気持ちよさがあるものの、物語展開は想像の範囲を超えず「この先どうなるのか」という緊張感はない。また、どうしても先に挙げた2作品の影響下にあることがチラつき「似てるなあ(似せ過ぎだなあ)」という感想が離れないため客観的に読まされる。なので、没入感が削がれている。

 作者の力量を見るに、綿密な下調べは得意とするところで、それをほどよくフォーマットに落とし込むこともできる。ただ、独創性や思わぬ展開を描こうという意識、あるいはスキルがないのかもしれない。といいつつ、後書きを見るに編集者の意向な気がしないでもない。「シンゴジラ✕ゲートで1冊書いてください」というオーダーだったんじゃなかろうか。そのオーダーには正しく応えている。作者がんばった。

 読んでいる間は割と楽しいが、読み終わった後には何も残らない、そんな作品だ。

 ただ、この風呂敷の広げ方で続刊があるならば読んでみたい。ゲートと同じような異世界蹂躙ものになりそうな気がするが、異世界の内政と軍事衝突を今作のようにリアリティを持って創作出来れば、なかなかユニークな立ち位置を確立しそうではある。『A君(17)の戦争』のリアリティ強化版が理想。(あと、過剰なえっち要素を入れない)

 このバランス感覚は既存の作家で言うと有川浩が近い。といっても『図書館戦争』や『植物図鑑』ではなく『空の中』か『海の底』の有川浩だ。『塩の街』は除外される。空、海のどちらも自衛隊✕未確認生物とのやりとりだが、昨今のラブコメ有川浩に比べると自衛隊の活躍濃度が高い。今作の作者は有川浩を参考にすれば、かなり伸びるのではないかと夢想する。

 その理由として、今作には緻密な自衛隊描写以外にもう1つ優れた点があるからだ。それは「極限状態の人間の感情」である。作中のトリアージのシーンや病院から逃げる人々のシーン、わだかまりのある父娘のやりとりなどは斬新ではないにしろ、適切な言葉運びによってじんわりと心に溶け込んできた。この能力を伸ばせば、作者はより飛躍できるものと考える(えらそう)

 あとは「独創的な展開」を少しでもいいから付け足せる能力だろうか。プロットを作る能力はありそうだから、方向性を編集者が示せばよい。「シンゴジラ✕ゲート」では二番煎じだし、作者のヒューマンドラマスキルを活かしきれない。単純ではあるが、異世界から来訪した少女を持ち込んで、リアリティを担保しつつ主人公と世界はどのような決断をするのかなど、異物とのコミニュケーションを交えるのがいいのではないか。創作難易度はあがるが、単に排除する敵との戦闘ではなく交流と別離が描けるフォーマットを用意したほうが、作者に合っているのではないか…どうかな。

 有川浩の初期成功は自衛隊✕ラブコメなので、同様に自衛隊異世界ヒューマンドラマでどうでしょう。うーむ、もはやライトノベルをやめたほうが成功する人かもしれぬ。テロリズム、カルト、有事…そのあたりを描くのが良さそうではある。が、作者はライトノベルが好きな気もするし、リアリティのあるラノベはまだまだ市場が残っているので、がんばってほしい(えらそう)

空の中 (角川文庫)

空の中 (角川文庫)

海の底 (角川文庫)

海の底 (角川文庫)

【感想】【小説】『マッド・バレット・アンダーグラウンド』

マッド・バレット・アンダーグラウンド (電撃文庫)

マッド・バレット・アンダーグラウンド (電撃文庫)

 読み応えがあって独自の世界観も展開しつつ、テーマに沿った文体の完成度も高い。面白い作品。

 体内に「悪魔」を飼う能力者たちが、欲望渦巻く都市で、ひとりの少女を巡って血で血を洗う死闘を繰り広げる物語。

 スラムもの、というジャンルはあるだろうか。アウトローもの、ギャングものというジャンルはあるだろう。だが、スラムという「場」こそが、それら「はみ出し者」を生んでいるのではないだろうか。スラムは劣悪な環境で、人々は常に飢えて暴力が日常茶飯事になっている。力でのし上がろうとする者もいれば、使い捨ての駒として外部からチンピラたちを支配するエリートもいる。身体を売り歩く娼婦もいれば、親の虐待から逃げてきた子どもたちもいるだろう。思考よりも行動が優先されるサバイバル空間で、人々は常にぶつかりあい殺し合う。スラムもの、というジャンルがあるかは知らないが、この「場」を選べば自然と物語展開が紐付いてくる。

 さて、主人公たちの立場である。スラムで暮らす者であれば、怠惰な現状維持か、今日のためにあくせく生きるか、明日のために爪を研ぐほかない。いずれにせよ、幸運か不運か、今を変えられる力(もちろん金の場合もある)が舞い込みさてどうするか、が始まりになる。本作ではマフィアから依頼が舞い込み、そこで奪還対象の少女と出会ったところから、非日常が始まる。主人公含めて登場人物のほとんどが「悪魔憑き」であるため、能力者バトルが頻繁に発生する。主人公と少女の親睦は描かれつつもメインではない。映画『レオン』の雰囲気ではなく、バトルものといったほうが相応しい。『バナナフィッシュ』よりは『血界戦線』のほうが近い。だから、物語全体から静謐さや美しさよりは赤と黒の躍動感があふれる。アニメなら『DARKER THAN BLACK』が近い気もするが、むしろ『HELLSING』か『BLACK LAGOON』が近い。『ジオブリーダーズ』ではない。

 スラムもの、というジャンル名は不適切な気がしてきた。『血界戦線』はニューヨーク的な都市で、ただ混沌としている。欲望が支配する都市「混沌都市」、あるいは「カオスシティ」と呼ぶほうがいいか。シティと呼ぶことで気がつく。そうか、バットマンの「ゴッサムシティ」もまた混沌都市である。住民も市長も等しく狂っているのがよろしい。本作について言えば「隔離・混沌都市もの」というジャンルが適切かも知れない。そこに能力者バトルを混ぜ合わせ、下地にソロモン王の悪魔を配している。単なる能力者とせずに「悪魔憑き」としたところが優れた点で、出自の独自解釈と能力制限、またその裏をかいた利用方法については、読んでいて説得力があり飽きが来ない。悪魔のバリエーションが豊富なことは約束されているので、続刊も期待できる。とても賢い設定である。

 面白い作品ではあるが、読書カロリーは結構ある。読み進めるのが疲れる作品だ。500ページ以上に渡って同じテイスト、テンションが続き、しかも血と硝煙の香りだけなので、疲れてしまう。もう少しだけページ数が少なくても良かったかもしれない。無駄なシーンはなかったように思えるが、読み返すと冗長さは見つかるはずだ。

 あとはイチャモンとしては、タイトルが気になる。マッドカプセルマーケッツに比べると言いづらく、東京アンダーグラウンドよりも覚えづらい。単語が3つ並んでいるだけで、全体を1つの言葉として認識しづらい。確かに悪魔の封じ込められた弾丸がガジェットとして存在するが、それをマッドバレットと呼ぶのは意味が遠すぎる。あるいは主人公たちの存在、生き方をマッドバレットと呼ぶか。その解釈が正解なのか読者には分からない。混沌都市ならばケイオスシティと呼んでもいいが、シティと呼ぶと途端に都会感が増し、近未来感もくっついてしまう。悪魔と人間について語るなら『デモンベイン』は最高のタイトルだった。一度耳にしたら忘れない。それにならって今作も『デモンクライ』とするのはどうか。ダサいか。ニトロプラスのタイトル群はなぜカッコいいのか。ヴェドゴニアのように創作名称を名付けるのがよいのか。あるいはパニッシュメントやサンクチュアリといった神罰的な名称がいいか。

 タイトルの付け方を勉強してみよう。

【感想】【小説】『七つの魔剣が支配する』

七つの魔剣が支配する (電撃文庫)

七つの魔剣が支配する (電撃文庫)

 『このライトノベルがすごい!2020』にて一位だったので読んでみた。結論から言うと面白い。文章力もあるし、ボリュームも十分、お色気から熱いバトルまで様々な展開が用意され、ジャンル越境的なバラエティに富んだ娯楽作品になっている。とくに剣劇(魔剣劇と言うべきか)の描写は、作者自身も憧れているという秋山瑞人風味の切れ味鋭い文章で読んでいて心地が良い。

 ジャンル越境、これができるのは技量の巧みさと各ジャンルへの造詣の深さがある。本作はハリポタ風な魔法学院モノに魔法剣劇バトルを混ぜ合わせ、さらにミステリの謎めいた味付けで興味を引かせ、ラブコメ要素で万人へアピールしている。そして最後には…メインは〇〇モノというジャンルであったことをばばーんと種明かしし、次巻以降へと読者を誘う。

 正直文句の付け所はないし、文句を言う権利もないので、ただただ自身の勉強のために本心に問いかける。つまり、イチャモンタイム。

 剣劇に関して言えば、本家の秋山瑞人ドラゴンバスターに比べると勢いが足りない。おそらく語彙の豊富さというところもあるだろうけど(とはいえ秋山瑞人はベテランです)舞台移動の少なさが影響しているだろうか。本作は閉鎖空間での剣劇が多い。バトルで言えばJRPG的で、アクションゲームではない感じ。対して秋山瑞人はアクションゲーム的で、空間もそこに置いてある物申す存分に扱いぶち壊す。その体感の激しさの差が、勢いの足りなさとして認識されたのだと思う。

 あとはキャラクターたちの心情だろうか。いずれのキャラクターも適度に慌てふためき、適度にしっかりしていて好感の持てる性格だ。ただ、プロフェッショナル過ぎる。事態に対して冷静すぎて親近感が湧かないのだ。読者とキャラクターの距離感は下位(悲惨さを笑う)、同等(一緒に感じる)、上位(憧れる)の3つがあると思うけど、上位と感じるには子どもで、同等と感じるにはプロ過ぎる。だから、感情移入のスタンスを定めるのが難しく、客観的に事態の推移を眺めてしまう。秋山瑞人の場合はEGコンバットの1巻目冒頭で、とんでもない感情移入を引き起こし、あとはぐいぐいと巻末まで引っ張る力があった。本作にはミステリ要素がふんだんに散りばめられて先へと読み進める吸引力として利用していたけれど、ややキャラクターたちが全員探偵的で、ドタバタが足りなかったのかもしれない。金田一少年で言う美雪ポジションか、彼方のアストラで言うアリエスポジションが欲しかった。本作は主人公に寄り添うのが天然バトルマニア侍ガールなので、ちょっぴり間抜けさが足りなかった。

 とはいえ、間抜けさというかほのぼのとした雰囲気はこの作品の本来の主題には相応しくない。ブラフとしての仲睦まじさを演出しつつ、ベースはシリアスでひりついたトーンに統一するのが最善か。

 つまり、この作品を評価するなら2巻以降となる…が、1巻ごとの販売である以上評価は平等にしておきたいところ。

 結論としては、総じてクオリティが高く楽しめるが、メインテーマをひた隠す構造が、どこか他人事めいた冷静さを生み出している「やや残念」な作品となる。

 編集者の技量の差かも知れないが『86』のほうが完成度は高かったように思う。

 と言うことで、2巻を読んでみよう。

【感想】【小説】『86-エイティシックス-』

86―エイティシックス― (電撃文庫)

86―エイティシックス― (電撃文庫)

 ああ、しまったな。先にAmazonのレビューをいくつか読んでしまった。…が、気にせずいこう。

 無人戦闘機械により限られた地域へ追い詰められ滅亡の危機に瀕した人類は、有色人種を「人間に非ず」と定義し、戦闘機械に搭載、白色人種はこれを「無人機」と喧伝し、自らは安全圏で豊かな暮らしを享受していた。白色人種でありながら、戦線に立つ有色人種たちを憂いていた異色の女性指揮官は、その実力を認められ、ついに激戦区へ投入されている部隊への配属を打診される。奴隷と支配者、身分の違いに反抗される彼女だったが、やがて部隊の兵士たちから認められるようになっていく。しかし、状況は大多数の白色人種が想像するより壊滅的で…。

 思考を整理するために、序盤をまとめてみた。まあ、進撃の巨人であり、マブラヴオルタネイティヴであり、ガンパレードマーチであり、オールユーニードイズキルであり、ダイナミック・フィギュアでる。つまり圧倒的多勢の生命体に人類が結構蹂躙されちゃってて、希望はあんまりないけれど…という設定&状況からスタートする物語。

 この設定はなんでか燃える。絶体絶命だから?戦争だから?人類が戦わなければ生きられない状況に陥ることで本音をさらけ出すから?
 常に死を意識しながら、少年(少女)兵がメカに乗り込み戦場を駆け抜けるその様子は、悲壮感と英雄願望を満たす最高のブレンドということか。

 人は悲劇を求めて本を読む。主人公がひどい目にあうことを期待して本を読む。もちろん、小説家は主人公をひどい目にあわせる。そうしないと物語が始まらないし展開しないしドラマが生まれないから。

 つまり、この手のジャンル(というより設定?)は主人公に訪れる悲劇さ加減がなかなか強いのだろう。だから、面白いと感じるのかもしれない。人の生存権を危うくする設定は刺激的。

 本作の評価は世間的には悪くなさそうだが、Amazonの評価を見るとそうでもない。設定の矛盾とあまりに饒舌な比喩表現に拒絶反応が出るようだ。あとは専門用語の列挙。

 しかして、あの表現群は世界観と一致させるために選ばれている。アーマード・コアの世界観に合う文章と、フォーチュンクエストに合う文章は異なるのだ。どちらかというと、本作の文章表現は同じ趣向を持つ人々へのサービスだったように思う。もちろん異なる趣向の人々からは、気取った表現にとられるだろうが…明らかに偏った作品であるにも関わらず、なぜ趣向の異なる人々が手にとったのだろう?

 考えられるのは宣伝の成功と、周囲の人々評価を判断基準にする層の導火線に火をつけたことだろう。

 さて、Amazonのレビューはさておき、本作は面白い。ページ数がなかなかな枚数だが、1巻できちんと言いたいことを言って、話も完結している。読了後に検索して知ったが、どうやら続刊があるらしい。それを感じさせない第1巻である。出し惜しみはなし。

 どちらかというと、1巻の完成度が高すぎたので、続刊しても1巻の濃さは引き継げないと思う。こうしてみると、続刊を前提にした(と妄想する)内容だった『ミニッツ』とは偉い違いだ。

 本作が面白いとオススメできる理由は、魅力的な世界観(オリジナリティはないが…いや、オリジナルなど最早絶滅した)と統一感があり世界観に沿った表現、個性的で生き生きと描かれたキャラクター群…というところになる。
 総じて、描きたいことに全てが集約されているため、没入感が高く気持ちが高揚する。書き手が自分のことを把握した上で書いているように感じる。悩みながら書いた文章よりも、全てを見通して書いた文章のほうが強いのは当然だ。

 でも、Amazonだと「ダメです」って評価も多いんだよなー。みんな完璧主義なのかなー。理想が高いのか。『十二国記』レベルを求めても、そうそう見つからないよ。でも、最上より劣っていたら、それは悪いものなのか?そりゃ比較したらそういう評価になるかもしれないけど、それは作品単体の評価とは別な気もするし…ダンシモンズくらい複雑怪奇な設定じゃないとダメなのか?京極夏彦くらい網羅的じゃないとダメなのか?

 ぬぬぬぬ、ぬん(悩んで体をねじり回す)

 とはいえ、身体を突き抜ける感動は無かったかな。だから、評価を低くする人がいるのだろうか。『地球・精神分析記録』は突き抜けたものな。本作の世界観とはまったく関係ないけど。

 突き抜ける感動か…いったいどうやったら生まれるのだろう。読者の価値観を揺さぶるしかないのだろうけど。となると、あまりにSFというか非現実的な世界観は、そもそもベースとなる価値観が読者とキャラクターでズレているので、価値観を揺さぶるのが難しい。かといって現実世界を舞台にする本ばかりになっても困る。「人間とは何か?なぜ生きるのか?」という普遍的なテーマであれば、SFだろうが世界観は関係なく受け入れられるか。

 そうだ、秋山瑞人の『EGコンバット』もこの手の世界観だけど、感動したな。となると、文章力なのか?文章力というより文体の好みってことか?もしくはキャラクターの描き方なのか?

【感想】【小説】『ミニッツ〜一分間の絶対時間〜』

ミニッツ ~一分間の絶対時間~ (電撃文庫)

ミニッツ ~一分間の絶対時間~ (電撃文庫)

 ネタバレアンド「あんまおもんない」という感想をつらつらと。でも、こうなった理由が作者だけのせいとも思えず、いろいろ妄想してみたり。

 「一分間だけ相手の思考を読み取れる能力を持った主人公が、その力を駆使して生徒会長を目指す」というお話。ここだけ読むとコードギアスっぽい、あるいはデスノートっぽい頭脳戦を期待する。圧倒的な力を持つライバルか、あるいは同じような力を持った多数の人々か、あるいは俺つえーなのか。序章から受けるワクワク展開はそんなところ。

 事実、ヒロインのハルカとの勝負は「天才と馬鹿ゲーム」といういかにもカイジ的というか賭け狂いましょうなネーミング。そのあとの描写も、まあ期待に沿って描かれる。うむ、よいよ。

 なのに、急に物語がシリアスな方向に切り替わり、さらには超常能力バトル(バトルは言い過ぎか)になって終わる。なんと、終わってしまう。生徒会長どこいった。

 この読了感は覚えがある。面白いらしいと聞いて読んだ涼宮ハルヒの一巻か、あるいは谷川流の絶望系閉じられた世界だっただろうか。電撃イージス5は面白かった。古橋秀之シスマゲドンみたいな楽しさ。

 ハルヒの場合は物語のトーンとやってることに統一感があるので「思ったよりこじんまりしていたな」と肩透かしではあったものの、ミニッツのように「あれれ」という気分にはならなかった。

 あとがきを見るに、作者としてはやりきった感じで、すごく嬉しそうではあるけれど、なんだか妙にハイテンション。そりゃ受賞したからさ、とも思うけど。

 さて、ここからは完全に妄想。

 作者は「主人公が生徒会長になる」までを描いて投稿したんじゃなかろうか。そりゃ「特殊能力を用いた頭脳下剋上バトル」というコンセプトなら、その達成=生徒会長になるまでを描くのが普通。じゃあ、なんで描いていないのか。それはミニッツが続刊していることから推測する。

 つまり、編集部が
「おもしろいね!売れるよ!ていうか売ろう!とりあえず四巻まで出そう!」
「え、四巻ですか?嬉しいですけど、展開が間延びするんじゃ」
「このままじゃそうだね、だからヒロインを追加しよう。ギャルは必須だよね!」
「ギャルですか?頭脳戦に似合わない気が」
「だったらホントは賢いのに隠してるワケアリギャルにしよう!髪は金髪でいいよね?」
「いや、金髪にするとちょっと目立ちすぎるので…」
「(よし、追加を前提に話し始めたぞ)じゃあ黒髪でいいよ!クール系ギャルも人気だしね!」
「クールにするとハルカと被っちゃうので…」
「あ、そう!?じゃ、まかせるよ。ただし、エロくしておいてね!エロくないギャルとか存在価値皆無だから!」

 …のような?

 四巻はさておき、続刊を前提とした場合、ひとつひとつの巻で描かれる内容はコンセプトに対して薄味になる。色々なエピソードを詰め込んでも、クリティカルな出来事(物語全体を前進させてしまう)は挿入できない。薄味をごまかすためには、セカンドコンセプトを使うしかない。つまり「人間的に問題のある主人公が改善される」だ。改善のためには周囲の人々とのコミュニケーションが重要になる。ここに「周囲の人々も人間的に問題がある」としておけば、恋愛ものとしてたくさんのエピソードを追加できるし、ミニッツ能力を使って「ゲーム型攻略」が実現可能になる。

 とはいえ、だ。「特殊能力に目覚めた主人公による下剋上」なら、まず最下層まで落としてから能力を得て、そこから這い上がる物語にするのがセオリーだ。ミニッツでは主人公は既に一般生徒としては、上位ヒエラルキーに位置する。ミニッツ能力は使っているものの、根本的な頭の良さと人間観察力により昇りつめている。主人公は出自の不幸さはあるものの「生き抜くために能力を使う」というサバイバル精神には欠けているわけだ。であれば、コンセプトの消化方法が下手、ということになり、ミニッツという作品の出来の悪さ…いや、文章は上手いし、読んでいてそこまで不快感はないので、出来が悪いわけでは無い。

 ミニッツという作品の座りの悪さは、作者自身の「描きたいことはなんなのか」が突き詰められて考えられておらず、さらには編集の魔の手が伸びたことになるだろうか。

 こうして見ると『神のみぞ知るセカイ』は作者の頭の中が整理されており、本当に良くできた作品だったと思う。

 もしかして、主人公にミニッツ能力が無いほうが面白かったのかもしれない(作品の根幹を破壊する提案)

【感想】『星合の空』第12話(最終話)

 見終わった後は「あれ、あと1話残ってるんだっけ?」とネット上での放映予定を確認してしまった。まさかこれが最終話だとは…。Cパートが終わるよりも前に、あまりにラスト試合がスムーズかつ爽やかに進むものだから「いやいや、この作品でこんな普通な終わり方はないでしょう」と訝しがっていたけれど、作品自体の終わりを訝しがることになるとは。

 

 最終話を見終わった後の気持ちが、日が経つごとに変化していったので、それをメモしておこう。

 

見終わった直後:

 これで終わりというのはあまりに杜撰。構成が下手というレベルではなく、明らかに「投げている」が、ベテラン監督がやる内容ではない。まさか風呂敷を広げたまま、回収の予兆すら感じさせずに終わるなんて。何か事情があるに違いない。これでは作品を「評価」することすらできない。

 

監督のツイッターを読んだ直後:

 なるほど、当初は24話だったものを、12話でまとめろと言われてヤケになったのか。毎話「まとめきれるのか?」とハラハラしていたが、最初からまとめる気がなかったわけだ。そりゃ、のんびりと話が進むのも当然。

 いやいや、こんな投げっぱなしでいいのか。曲がりなりにもプロなのに、関係者の顔に泥を塗るような真似をしていいものか。アニメーターはもちろん、劇伴を提供したjizueや主題歌を担当した中島愛やAIKI from bless4(あってる?)に申し訳ないと思わないのか。今後「ああ、あの問題作の劇伴ね」とファンから言われるんだぞ。

 大人なんだから、プロなんだから、お客や関係者を無視するような真似はいかんでしょ。

 何が「この作品としては、こんな終わり方もいいのかも」だよ。

 

その次の日:

 普通に考えれば、まともな精神ではこんな暴挙はできないので、監督の精神は怒り狂っていたに違いない。何に怒っていたか?もちろん杜撰な打ち切り体制だ。怒りを作品に乗せるくらいだから、よっぽど腹に据えかねる仕打ちだったんだろう。絶対24話でいきますから、と進めていたにも関わらず簡単に「やっぱ12話でヨロ」と反故されたんだろう…けど、やっぱり暴挙は暴挙だよ。

 関係者はこんな終わり方に納得してるんだろうか?

 

その次の日:

 監督としては、この作品に思い入れがあったっぽいんだよね…。作品を「子」だと捉えたとき、どういう終わらせ方が幸せなんだろうか。当初24話だった話を、12話にまとめ直して完結させる?普通はこちら。100%の内容に対して50%の内容になるかもしれないけど、それを商品レベルまで持っていくのが監督の腕の見せ所。けど、商品ではなく「作品」だった場合、再構成は本当に幸せな結末なのか。

 むしろ中断してコールドスリープさせて、いつか復活するその日を待つほうが幸せなんだろうか。そうすれば完結しないけど「改造された我が子」にはならない。

 これもまた、作品にとっての幸せか…もしかしたら、スタッフも納得したのかもしれない。「いつか、完成させてやりましょうよ」と。

 うう…それなら、クラウドファンディングをすぐに始めてくれよ。その姿勢がなけりゃ「どうでもいーよ」って考えに見えちゃうよ。

 

 ま、それはさておき。

 

 この時代に、こんな「事件」が起きて、それを目の当たりにできるなんて、申し訳ないけどドキドキする。監督が更迭されて無難にまとめられるでもなく、テロリズムが完遂されてしまったかのような不穏さ。狙ってやったことではないだろうけど、アヴァンギャルドな感じは嫌いじゃない。一般向けに公開する内容ではないかな。予め「やべーことやるぜ」と告知したほうが良かったのでは。

 

 ま、それもさておき。

 

 Cパートの色彩設計はかなり珍しいものだった。ここまで紅蓮の夕空は目にしたことがない。現実では3年に1度くらい夏のある日に目にする雷鳴轟く不穏な空色。背景美術のディティールの繊細さも相まって、非常に面白い絵になっていた。この色彩設計で『ちーちゃんはちょっと足りない』をアニメ化してほしい。

 

【雑記】2019/12/22

東のエデン』第1話

 キャラデザがものすごく羽海野チカで、物語が頭に入ってこない。というのは言い過ぎなんだけど、羽海野チカ世界のキャラがコスプレというか、映画を撮っているというか、役作りをしている感じで、物語が「真実だ」という印象が薄れてしまう。

 羽海野チカのデザインが悪いのではなくて、羽海野チカのデザインをそのままアニメに持ってきたのがダメ…少なくとも自分はダメに感じてしまった。原案は羽海野チカでいいんだけど、アニメ用のキャラデザはもっと世界観のシリアス度合いにあわせて変えてしまってよかったのでは。お客さんも「羽海野チカの絵が動く!」なんてことは喜ばない気もするし。それは『ハチミツとクローバー』や『3月のライオン』で達成できていればいいのであって、オリジナルアニメで達成される必要はあったんだろうか。ていうか、誰が喜ぶのか。

 じゃあ、なぜ羽海野チカを選んだんだろう。一番「ええー?」と思うのは話題性。たとえば『3月のライオン』が売れていて、そもそも『ハチミツとクローバー』が売れていて、この人がキャラ原案となれば、相当数のファンを引っ張ってこれるに違いない、という良くないプロデュース。ファンベースを広げる、導入ハードルを下げる、女性からも見てもらえる、という点ではプロデュース方法は間違ってないけど、作品のクオリティには関係のない話。売れている少女漫画家をキャラ原案にすると、そのファンはついてくるのだろうか。志村貴子がキャラ原案を担当した『アルドノア・ゼロ』はどういうファンがついたのだろうか。

 さて、そろそろ当時のインタビュー記事を探してみよう。きっとキャラ原案に羽海野チカを選んだ理由が書いてあるはずだ。

(さがしちゅう…)

(みつからない…)

 みつからない、けれど公式サイトを見るに「あれ?」と思う。

https://juiz.jp/

 この絵だけを見るなら「羽海野チカ」っぽくないな、と感じる。邪推でしかないけれど「アニメのキャラ原案」という普段と違う仕事について真剣に向き合った結果「普段とちょっと違う画風」を目指したように感じる。パッと見の印象で『十二国記』などの挿絵を手掛けた(いや、この人については『ミスティック・アーク』の人と呼びたい)山田章博に近い塗り、テイストを感じる。古き良き海外童話的でありながら、和風の枯れを感じるというか。とにかく「目」について羽海野チカらしい「柔らかさ」や「優しさ」が抑えられているように感じる。ええと、つまり、すごく良い絵だと思う。

 なぜこのテイストでアニメ化しなかったのか…なぜアニメのキャラデザを「THE☆羽海野チカ」にしてしまったのか…せっかく原案で頑張っていたのに?まあ、勝手な妄想だけど。うーんもったいないなあ。もっと枯れた画作りにできたかもしれないのに。公式サイトの絵を作品全体のビジュアルにひっぱってこれたら、優しいのに悲しいというテイストになったかもしれないのに…ま、1話しか見てない人間が言うことではない。

 

 インタビュー記事は見つからなかった…過去に雑誌等でインタビューがあった形跡は発見したけど、さすがに本文は残ってない。ユリイカのバックナンバーとかで無いかな『東のエデン』特集とか。

 

サクラ大戦について

 買ってないのでやってない。けど、開発経緯とコンセプトが気になるから調べておこう。

https://dengekionline.com/articles/16919/

電撃プレイステーションの名越さんへのインタビュー。

サクラ大戦』がいまだに根強いファンが多いIPだから

 

作るとすれば、新しいファンを取り込めるような作品にしたい

 

旧来のファンに対して刺さるものをどのように作ればいいのかというのは、あまり理解していない

 

既存のファンに向けただけの作品になると、セールスもある程度は見えてしまいますし、

 

逆にぶち壊す部分をどのくらいまで許容できるならば作ってもいいのかなと

 

要素を加えることはいくらでも加えられますが、まずは加える前に変えるものから決めなくては

 

1つ1つ“『サクラ大戦』らしいもの”“『サクラ大戦』らしいけど変えるべきもの”という形でタグ付けした

 

龍が如く』シリーズでは長くアクションを手掛けていて、『新サクラ大戦』も人型のアクションゲームであるといえばそうですし

 

「やっぱり『サクラ大戦』ってこうじゃない?」と、決めつけた誰かが徐々に舵を切り始めて、方向が従来のものに戻りがち

 

賛否はあったと思いますが、基本的には受け入れてもらえたと思います

 

従来のバトルシステムに『サクラ大戦』らしさを感じていた方が、思ったよりもいなかった印象

 

いろいろな作家さんを受け入れたり、多彩な設定を受け入れたりとか、その要素をずいぶん昔から持っている作品

 

いろいろと変えましたが、根っこの部分は変わっていないわけです

 

「『ペルソナ』がおもしろい」が広まったから『ペルソナ5』が売れた

 

それと同じで「『サクラ大戦』がおもしろい」という、短い動機付けがたくさんの人に伝播していくことが、今の一番の願い

  ほうほう、なるほど。新旧両方のファンに売りたいという思いがありつつも、「新規ファンの獲得」に舵を切ったわけか。旧作ファンの期待値を下回らないように、守るべきところは守り、攻める(変える)べきところはずんずん変えていくのだ、と。

 難しいな、自分ならどうしただろう。

 旧作ファンだけが喜ぶタイトルを目指すだろう。ただし「魂」以外は考え直す、という感じで。新規ファンはゲームを販売するまでは姿かたちが見えないけど、旧作のファンは見える。シリーズの名前を冠するなら、そのファンたちが「これだよ、これ」と大喜びするタイトルを目指す。そしてゲームとして「めっちゃ面白い」内容であれば、自ずと新規もついてくる。

 いや、面白いだけじゃダメだ。遊ぶ前から「買う価値がある」と伝えないと、初動が弱い。初動が弱いとジワ売れになってしまう。日本の場合はジワ売れは本当にジワ売れなので、続くプロジェクトに影響が出てしまう。

 遊ぶ前から「買う価値」があるように思わせるには宣伝、つまりプロモが重要。「あのサクラ大戦が復活」というだけではキャッチーさにかけるので「よく知らないけどこのゲーム面白そう」と思わせる必要がある…から『新サクラ大戦』は戦闘部分を「アクションゲーム」にしたのだろうか。シミュレーションゲームの購入層はアクションゲームの購入層に比べると少ないし、最初から間口を狭くする方向は避けたのだろう。

 うーん、その時点で旧作ファンからすると「変えてはならない部分」なんだよな…でも、似たような始動だった『戦場のヴァルキュリア4』の売上が芳しくなかったことを踏まえると、アクションゲーム化は成功だったのかもしれない。

 でも、違うんだ。サクラ大戦シミュレーションゲームじゃないんだ。戦闘だけに限って言うと『サクラ大戦3ゲーム』なんだ。『サクラ大戦3』で完成した「自由に歩ける戦術バトル」はとても良くできたシステムだった。そして「誰でもクリアできる難易度」も重要で、バトルパートが味付けではあるものの「遊んでいて楽しさしかない絶妙な味付け」だった。

 サクラ大戦は「アドベンチャーゲームシミュレーションゲーム」というように、2種類のジャンルが独立して存在しているように揶揄されるけれど、実際は「キャラクターたちと行動を共にする隊長シミュレーター」としては、両方のジャンルを混ぜることで達成されていた、とても優れたブレンドだった。確かに「アドベンチャーゲームシミュレーションゲーム」だった。

 そう、サクラ大戦のコンセプトは「太正桜に浪漫の嵐!」というだけでなく「太正浪漫溢れる隊長奮闘記」だった、と思う。遊んでいる時「自分は大神隊長として、この世界に入り込んでいる」と錯覚できた。このコンセプトだったから、隊員の気持ちを探ってケアしようと考えるし、戦いにおいても帝都と隊員を守ろうと試行錯誤した。

 『新サクラ大戦』はこのコンセプトを守っていたのだろうか。買ってないから分からないけど…「隊長の奮闘」を表現するためにアクションゲームというジャンルを選んだだろうか。というか、こういう考え方が「サクラ大戦はこうじゃないとダメ」という古い考え方なんだろうけど…さ。

 とかうだうだ考えるのは、ペルソナ3の開発経緯に比べると、あまりに旧来のファンを軽視して、マーケベースになっている気がしたから。

https://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/191030a/2

 ペルソナ3のディレクターである橋野桂さんへのインタビューだけど、発想の手順がとても正しい。自身が腑に落ちるまで徹底的に考え、咀嚼し、自分なりの形に落とし込む。幅広いユーザーに向けるために「キャッチーな記号」でデコレーションする前に(最終的にはデコレーションは重要)根幹部分で「誰もが共感できるものとは」と追求している。

 それはペルソナだからできたことだろうか。サクラ大戦という枠組みでは、そもそも無理難題なんだろうか。「人はなぜ生きるのか」というテーマは、あらゆる人間にとって価値を持つ問いかけだ。サクラ大戦は「なぜ少女たちは平穏を捨てて戦うのか」というテーマが存在していた。最初は「能力を持ってしまったから」「死に場所を探して」「なんとなく」だったものが、帝国華撃団での生活(プレイヤーとの!)の中で意味を発見していく。「人はなぜ生きるのか」「愛する者たちのためだ」という回答は確かに陳腐かもしれないけれど、力強い返答だった。そして、サクラ大戦シリーズは物語の終盤で帝国華撃団を危機に陥れ大神隊長に「なぜがんばるのか」と問いかけてきた。それに対してユーザーは「愛する者たちのためだ」と恥ずかしながらも胸に秘めた思いを敵の大将に対して告げていた。このストレートで泥臭い体験が、サクラ大戦というゲームを名作にした根底だと思う。広井王子あかほりさとるだからこそ生み出せた「王道」の心地よさだ。

 うーん…といっても、これはプレイしないと分からない部分だよな…これだけじゃ売れない…。コンセプトは「隊長奮闘記」でありつつ、一見して購入したくなるキャッチーさを付けられないものか。士官学校から始めるとか、学生生活にしてみるのはどうだろう。つまりペルソナ化するということ。軌跡シリーズもそちらに舵を切っている。でも、そうすると『戦場のヴァルキュリア』になって、それじゃ売れないのか。とはいえ、ヴァルキュリアは「架空戦記」というフォーマットなので、ユーザー層を狭めてるんだよな…ミリタリー色が強くて、面白いけどファン層が狭い。じゃあ「大正時代シミュレーター」という方向はどうだろう。グランドセフトオートとはいかないまでも『L.Aノワール』くらい(わーお、大変だ)の広げ方で…。

 大正時代シミュ✕隊長奮闘記にして、ペルソナのように1年を通して隊員や街の人々との絆を深めていく。もちろん、大正時代ならではの遊び、ベーゴマや活動写真、ブリキ製玩具や…これは明治時代か?『大正野球娘』が好きなんだよな(小説版)…ああいう洋食屋や野球とか…おお、遊びたくなってきた。

 

 『新サクラ大戦』…買わないとだな。