2019/11/30:雑記
『彼方のアストラ』思い出し
『星合の空』7話感想
2019/11/27:雑記
星合の空:第6話
バビロン:第7話
いまこそ『正解するカド』と野崎まど
今、野崎まどの時代が来ている
嘘である。
野崎まどの時代はずっと前から来ていたのだ。
デビュー当時から。
と、いいつつも野崎まどを知ったのはアニメ『正解するカド』からだった。
古参ファンからすれば「おっくれってるー!」であろう。
だいたいにして、カドが放送された時から怪しかったのだ。
すでに刊行され完結していてある程度の売上が見込める原作小説の映像化ではなく、いきなりのオリジナル脚本に抜擢されるなんて。
これはもう、出資者の中に野崎まどファンがいるに違いないのだ。
そしてそれは木下グループに違いないのだ。
『エロマンガ先生』と『ねこねこ日本史』に出資している時点で限りなく黒なのだ。
のだのだ。
なにが言いたいのか
野崎まどは不当に扱われている。
その不名誉を返上するためにこのメモを記するので…はなく、単に「なぜ正解するカドはこれほどまでに叩かれたんだろ」「そんで、なぜみんなは野崎まどを毛嫌いするのだろ」と思ったので、自分の中で整理したくなっただけだ。
野崎まどは不当に扱われている。
扱われるようになってしまった、カドの後半展開によって。
『正解するカド』とはどんなアニメだったか?
荒唐無稽で壮大なスケールのSFでありながら『シン・ゴジラ』同様のリアリズムによって見るものすべてを魅了し、中盤の「ワム」展開で度肝を抜き、最後の数話でファンをアンチに変貌させた嵐のような作品である。
どんなアニメかって?
第0話で零細企業の土地買収問題を巧みな外交手腕で解決したアニメだよ!
いや、冗談抜きにそういう話がある。
この地味な話が大層面白い。
社会派だねー、となんだか賢くなった気分で見ることのできる0話。
ワクワクしながら1話を見たら「この感じ『シン・ゴジラ』だ!」と0話と同様のリアリズムを追求しながら怒涛のSF展開を繰り広げる。
つかみはオッケー、あとは脚本の荒波にもまれようぜ、という作品。
ええと、つまり面白そうだぞと思わせ、実際に面白かった作品です。
しかしながら、前述通り物語が佳境に入ってからどんでん返しを超える大どんでん返しを行い、アンチを大量に生んでしまった。
その結果、不当に扱われるようになってしまったのである。
不当ではないのでは?
いや、不当なんです。
評価するカド
いつの頃からか、視聴者は「完璧な脚本」「完成度の高い脚本」を求めるようになってしまった。
ここで言う完璧とは「1話から最終話まですべてがハイクオリティで完璧」ということ。
『エヴァンゲリオン』のTV版が放映されていた頃は、もちろん完璧なんて考えたこともなかった。
『無限のリヴァイアス』にしたって、完璧かどうかなんて考えなかった。
色々なアニメが作られて来たものの、完璧な脚本は「映画」にこそ当てはまる考えであって、テレビでは「面白いといいなあ」と期待をもって眺める程度だった気がする。
それがある作品以降変わってしまった。
その作品は『魔法少女まどかマギカ』である。
虚淵玄が脚本を書いたこのアニメは、その完成度でもって「全話の完成度が高い」といういまだかつて無い高水準のテレビアニメを作り出してしまった。
それも、オリジナルアニメで。
このアニメの登場をもって、視聴者の評価基準が更新されてしまった…ような気がする。
すべての話数は連続して連結して無駄な話があってはならない。
少しでも全体のテンションを阻害する話は嫌われる。
1話単位でも完成度が高く、全話通しても完成度が高いのが当たり前。
このシビアな評価基準が世間にもたらされたことで、カドは不当に扱われるようになってしまったのである。
…なんのこっちゃ、である。
※もっと言うと現実社会の「成果主義」が作品視聴の態度に影響していると思われる
過程は無視される
まどマギの登場で評価軸が一変し、人々は「過程」を無視するようになった。
全話見終わった後の感覚が全てで、それまでの楽しさは排除されてしまう。
仮に全12話のうち11話が面白くても、最後の1話がつまらなかったら、その作品は「つまらない」と判断され、拡散されてしまうのだ。
まてまて、過去の自分の気持ちをちゃんと大切にしてみよう。
カドは全12話だ。
簡単にまとめると、以下のような内容になっている。(見たことある人向け)
1話:空港に超巨大立方体が出現する
2話:立方体の外に異星人が出てくる
3話:無限エネルギー装置ワム
4話:孤立する日本
5話:天才の折り紙
6話:おひっこし
7話:自分を自分が認識してる
8話:テレビを見るのは自己責任でお願いします
9話:魔法少女現る
10話:はるか昔の話
11話:服のセンスに絶句
12話:車とともに颯爽と登場!
うーん、こうやって並べると面白いな…
この抜粋タイトルを見ながら思い出してほしいが、8話までは抜群に文句なしに面白かった。ツイッターで「面白い!」とツイートしている人が多数いたことを覚えている。
問題は9話だ。
9話の展開がこれまでのリアリズムをぶち壊す衝撃的な展開だったため、視聴者は混乱した。
8話までが面白すぎたため、9話からの変化に戸惑い、好意は敵意へと変わった。
たしかに、9話以降は8話までとはベクトルが代わり、空想の度合いが強まってしまった。別の作品のようにも感じられる。
だが、カドの8話までは誰しもが認める面白さだったはずだ。
その気持ちを大切にして、この作品を評価してみてほしい。
8話までの面白さを考えついた人間、つまり野崎まどは本当にダメな脚本家だっただろうか。
本当にダメな脚本家は、あんなに面白い8話を作ることはできない。
あの8話までを評価したのなら、残りの話数の評価がなんであれ、野崎まどを無能扱いしないでほしいと願う…うーん、いったいどんな立場なのか。
来ますよ、野崎まどが!
いや、もう来ているのだ。
デビューの当時から。
『バビロン』は絶賛放映中で『HELLO WORLD』は劇場作品になった。
気づいているだろうか、この流れと同じ過程を経ている脚本家がいることに。
そう、虚淵玄である。
テレビ業界には「映像化されやすい脚本家、小説家」がいる。
貴志祐介だったり、万城目学だったり、池井戸潤だったり、有川浩だったり。
アニメなら虚淵玄だ。
ここに野崎まどが加わっていることに気がついているだろうか。
そう、野崎まどの時代は始まっていて、これからどんどん映像化されるに違いない。
なにせ、まだ『Know』が残ってるし『[映]アムリタ』もあるし『なにかのご縁』もある。原作には事欠かない。
つまり…?
野崎まどを毛嫌いせずに、じっくりと追いかけてみようじゃないか。
大傑作と出会う日も近い…かもしれない。
※ちなみに『Know』が一番劇場向けな気がする
【感想】【ゲーム】Slay The Spire
概要
開発経緯
1:与えるダメージと被るダメージが計算できる
2:相手の行動が提示されている
3:ゲームに習熟しやすいように調整されている
4:フレーバーテキストが面白い
5:手触りが良い
6:安いよ!
おわりに
【感想】『星合の空』第四話
なんとなく好き
なんとなく、見始めたら、できが良い。
赤根監督が担当しているというのはうっすら知っていたものの、まさか脚本まで担当しているとは思いますまい。
監督と脚本を兼任しているということは、作品全体の「空気感」と「テンポ(間)」が統一されるということ。
見て「あ、これ気持ちいいな」と感じられたら、そのまま最後まで突っ走れる。
このあたりは生理的なものなので。
どうして好きなんだろう
キャラデザが好き。
この手の「線をちょんちょん」と付け足して目尻を表現している絵が好き。
今では当たり前の処理だけど、初めて目にしたのは宇木敦哉(ウキアツヤ=イラストレーターのmebae)の作品である『センコロール』だった。
だからイラストを担当している『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜』も好き。
いや、あれは作者が田中ロミオ(山田一)だからってことが大きいけど。
どうして好きなんだろう2
やっぱり空気感とテンポ。
あだち充が好きだったり、高橋留美子が好きだったり、石黒正数が好きだったりするのはシナリオもさることながら、やっぱり空気感とテンポ。
これは生理的なものなので…(2回目)
じゃあ、具体的にはどういうところか。
「余裕がある」
「余白がある」
「想像にゆだねる」
「なんとなく通じる」
「仲いいねえ、君たち」
という感覚だろうか。
製作者が自分の好みを把握していて、だからこそ「余計で必要な間」を付け足すことができている。画(絵ではなく、構図、レイアウト)に乗せられる会話という情報は、確かに物語を推進するための情報ではあるけれど、それをどう伝えるのか=表現、ここに作者の本質が如実ににょにょにょと溢れたり滲み出たりする。
つまり、作者が優れているからこそ、余裕があり、その余裕が物語運びだったり演出だったりに現れている。
それが気持ちいいんだな~。
『星合の空』は結構しゃべるシーンが多いとはいえ「必要な情報」というよりは「必要なリアクション」や「親しみを覚えるリアクション」が多いと感じる。
シチュエーションに対してキャラクターがぽろぽろとリアクションを返してくれるものだから、思わずにこにこして見入ってしまう。それに、セリフ運びがキレイ。
もちろん、虐待関係のツライシーンだと、感情移入してしまって見ている方もシンドイ…けど、それが監督の狙いだろうし我慢しよう。
リアクションか…やっぱりそうだな『彼方のアストラ』でも書いたけど、良いキャラクターは良いリアクションをするし、良いリアクションが良いキャラクターを形作るよな…。
「キャラが立っている」というのは単に「個性的」ということではなくて「良いリアクションをする」ということなのかもしれない。
『本好きの下剋上』のマインにしても、個性的かと言われればそうではないけれど、リアクションが面白くて親しみを覚えてしまう。(WEB版=なろう版のほうが心情が描かれる分、リアクションに親しみを持てるかな)
リアルとリアリティ
リアル=リアルである(現実の再現度が高い)
リアリティ=リアルだと感じる(それっぽい、嘘だと感じない)
ということだけど(自分の中での基準は)『星合の空』はリアリティが高い。
…と書くと「都合のよい脚本だー」「こんな中学生いないぞー」と反論は来る…のだろうか。
まあ、誰かと論じているわけでもない。個人的なメモなのだ…。
リアリティを感じる原因は「監督が嘘をコントロールできているから」に尽きる。
宮崎駿も言ってたけど(確か「出発点」という本)嘘をいかに嘘だと思わせないかがアニメーションの肝だと。
そりゃー、アニメって嘘だもの!
絵が動いているだけだもの!
けど、そこに魂(アニマ)が宿っていると「錯覚」するのがアニメーション!
リアリティが高い=魂が宿っていると感じる、ならば『星合の空』は結構高いぞ、このレベル。魂宿ってる。
なんでだろ、と。
理由の1つがソフトテニスのシーン。
『坂道のアポロン』の演奏シーンや『ピアノの森』の演奏シーンに通ずるものがあるぞ、これは。
何が言いたいのか。
おそらくは実写動画を参考にした丁寧な作画(CGベースかもね)で、ソフトテニスシーンを見ているだけで気持ちがいい。
この「気持ちがいいシーン」が適度に挿入されることで、キャラクターたちが「その場にいる」感じ、ええと存在感が増していて、それ以外のシーンでも「このキャラたち…いるぞ!生きてるぞ!」と感じられる。
丁寧な日常作画こそが作品全体のクオリティを上げるというのは日本のアニメーションのお家芸で、アクション主体の作品ではベクトルが違っていて目指しづらい作戦である。
これをちゃーんとやってるのがご存知スタジオジブリ。
とはいえ、スタジオジブリのおかげで、最近のアニメ作品はいずれも日常描写に手を抜かなくなってきている。
ジブリだけの功績ってのもフェアではないか。
あとは京都アニメーションだよね、やはり。
日常芝居は派手さは無いのに高コスト。
ここに注力するのは勇気がいるぞ。
理由のもう1つがレイアウト(画面の構図)なのかな。
具体的にはキャラクターと背景の配置の仕方。
「この作品にとって重要なことはなにか」
それを監督は問い続け、画面に映す。
『星合の空』にとって重要なことはなにか。
赤根監督はこう言っている
アニメーションで時代を写したい。ただ単に、今の時代の面白おかしい事柄だけではない、特に若い子たちが抱える苦しみや悩み、そういったものをちゃんと表現するアニメーションを作ってみたいという気持ちが強かった
現実的な世界で、自分のプライドとアイデンティティを保ちながら生きている少年たちのドラマを作りたい
まこと勝手な解釈ではありますが、このコメントを読んで思ったのが「空気、気分を切り取りたい、描きたい」という意図。
じゃあ、それを表現するレイアウトってなんだ?
登場人物が立っている場所はちゃんと映そう。
カメラは基本的にちょっと引き気味で全体像を映そう。
人間関係、それも敏感で感情的な中学生たちだから、姿勢や距離感は丁寧に描こう。
レイアウトで「場所×立ち位置×姿勢」を適切に描き、監督の意図を浸透させることで、描きたいドラマが滲み出てくる。
「監督の意図が表現されたレイアウト」
ここに気持ちよさを感じているのかもしれない。
都合の良いキャラクターと脚本?
そうかもなー、とは思う。
こんな中学生いないぞ、とか。
母親はなにやってんだ、とか。
親父の蛮行は通報されて即アウトだろ、とか。
これらの指摘というか、引っかかる人がいるのも理解できる。
けれど、自分としては気にならない。
なんでだろうかと考えると、やっぱり「空気感」が優れているから。
生理的に心地が良いから、批判的な視点で見たくない、という気持ちが先立つ。
そりゃ、批判しようと思えばできるんだけど、自分から自分を不快にさせても仕方がない。
んで、見終わった後は空気感も断絶されてるので、批判的な見方をしてもいいのだけど、やっぱり批判するほどの問題を感じていない。
監督が描きたいのは「どうしようもなく力のない僕らが、それでも諦めずにあがいてみた日常」だと思うので、それ以外の部分は最低限を超えていれば問題ではないと思う。
主題(テーマ)に対して、真摯に向かい合って、最低限のフォローを入れつつ、やりたいことはドカンとぶちかます、そういう作り方が好み。
好み好み…まあ、結局は好みなのかも。
エンディングのダンス
触れないのも嘘だな、ということで触れてみる。
といっても、外野が事実関係にわーわー言うのは誰に対しても失礼なので、アノ辺の話はしない。
演出と作画の話だけする。
このアニメでダンスというエンディングが適切だったかは不明だけど、キャラクターごとの性格差が分かるダンスという意図は面白い。
それに作画が面白い。
世間的には元ネタダンスをそのまんま採用した、という意見ばかりが聞こえるけれど、演出と作画意図はそこにはない。
まず、ベースとなる「ちゃんとしたダンス」を用意する。
(ここで、ちゃんとダンサーを雇っていれば幸せだったんだけど)
そのダンスを「ふくよかな生徒会長が完璧にこなす」というおかしさを演出のベースにする。
そこから「それぞれのキャラクターの個性に合わせた崩し方を見せて、キャラクターに親しみを感じさせる」ことが意図。
そう「崩す」のが大事。
「崩したダンス」は元のダンスにはない。
ここに担当アニメーターのやりたいこと、魂を込めた部分がある。
単純に「踊らせてみたっす」ではない。
「崩してみたよ!」
ここが作画担当者がものすごーく情熱を持って頑張ったところ。
崩したダンスなんて、普通はやらない。
疲れてヘトヘトのダンスなんて、ネット上で見ることはできない。
ダンスをすれば疲れる、人によって出来不出来がある。
そんな当たり前だけど、参考になる動画がなくて「脳内で作り上げるしかない動き」を狙いとして達成したのが『星合の空』のエンディング動画。
この部分が無視されて論じられているのは悔しい。
もしこのブログを読んでいる人がいたら、そういう見方でエンディングを見てほしい。
この「試み」についてはガンジガラメの事件とは別に、きちんと評価してほしいと感じる。
関連リンク
■監督インタビュー(コミックナタリー)
https://natalie.mu/comic/pp/hoshiai
■監督インタビュー(TBS関連サイト)
https://www.tbs.co.jp/anime/hoshiai/interview/
■監督「赤根和樹(アカネカズキ)」経歴
https://w.atwiki.jp/enshutsu/pages/298.html
【感想】映画『スター☆ティンクルプリキュア 星のうたに想いをこめて』
「きらやば…」だった。
「キラやば〜!」
ではない。
前回の映画『ミラクルユニバース』はお金返して、という出来だったのに対し、今回は汚名返上、名誉挽回、逆転サヨナラ満塁ホームランだった。
アニメを鑑賞する際は「絵(作画・レイアウト)」「演出」「脚本」「音」で楽しむものだが、その全てが丁寧に作られていた。
特に作画は「キャラデザがそのまま動く!」というコンセプトなのかどうかは知らないけれど、一番丁寧に描かれた絵がそのまま動くという感じで、見ていて眼福、お金を払う価値のある内容だった。
冒頭が宇宙空間で、その後の舞台が沖縄ということもあるけれど、影を濃い目に乗せ、さらに丁寧に盛り付けることで、劇場版らしいリッチさと、キャラクターの立体感を生み出していた。
ギャグシーンではきちんとテンポを切り替えられていて、適当に入れる「子どもだまし」ではない。無理やり笑わせようとすると「情報」だけが伝わり、一番重要な「間」が損なわれる。今作はギャグシーンの意図を明確に持ち、演出も間を意識し、視聴者と一体感を得られるようになっていた。
スタプリ(長いので略します)のモチーフは「宇宙」だが、その裏には「歌とダンス」がある。テレビ本編では味付け程度で「なぜ歌うのか、なぜ踊るのか」は説明されない。
だが、今作では「明確な意味」がある。
歌わなければならないし、仲間と歌うからこそ気持ちが自然と盛り上がり踊りだす。
「誰かのために歌い、踊る」これが脚本に書かれ、演出が応えている。
テレビで流れる映画のCMと映画ダンスの切り取りは、狙いが外れていて失敗していると思うが、逆に成功につながっている。
CMを見た人は「世界中を旅するとか…散々宇宙を旅しておいてショボい」と思いそうだし、ネイチャー系の映像はどうしても教育的な側面があって、自然と身構えてしまう。真面目ぶりやがって…ウザ。という感じ。
切り取りダンスを見た人は「なーんだ、いつものCGね」と思うだろう。背景も「ただの海じゃん」で印象に残りづらい。
だが、この失敗が劇場で効いてくる。
目が覚める、と感じる。
同じ気持ちは映画「若おかみは小学生!」の冒頭に流れる神楽のシーンで味わった。
「地味」
「真面目」
「退屈」
という感情。
だが、今はあのシーンに涙せずにはいられない。
あの時間こそがもっとも尊い…いや、ここから先は本編を見てほしい。
話を戻そう。
スタプリの映画CMと切り取りダンスは、客引きとしては失敗、マイナス効果になっていると思う。
だが、劇場で見ると、あのシーンの意味を知り、全くもって無駄ではないことが分かる。
だから、CMとダンスを見て「見なくてもいいかな…」と判断した人こそが見に行ってほしい。
前言を覆すようで申し訳ないが、今回は作画が華麗だった。
特に華麗なのが「切り取りダンスにつながる直前のシーン」だ。
「歌い踊る」瞬間を最大限に「演出」するにはどうするか?
現代で「華やかに歌い踊る」のは誰か?
それは「アイドル」だ。
そして、極めつけは「ミュージックビデオ」だ。
プリキュアたちの想いが溢れ、それを華麗に演出した「切り取りダンス」につながるシーンは、演出者の「意図のために多少の細かいことは捨て去る」覚悟を感じた。
時には整合性よりも大事なことがある。
子ども向けの映画なら、なおさらだ。
すみません、今回はCGより作画のほうがキレイでした。
今作は敵が怖い。
純粋な悪党で、犯罪者だからだ。
登場シーンからして「ドラゴンボールか!」とツッコミたくなる凶悪感。
実際に戦闘が始まってからも「これ…クウラ(劇場版で登場したフリーザの兄)だわ」と言いたくなるくらい、シリアスなバトルが続く。
ちょっと子どもには怖すぎた気がしないでもないが、それに立ち向かうプリキュアたちの凄さ、勇気を描くのには役立っていた。
うーむ、それでもバーン星人は怖すぎる。
さて、色々と書き殴ったが、今作でもっとも褒め称えるシーン、というか言葉がある。
それが
「きらやば…」
だ。
「キラやば〜!」
ではない。
思わず漏れ出た真実の「きらやば…」。
キラ、ではない。
やば〜でもない。
ため息のように、ささやくように、自然と内から湧き出た「きらやば…」。
この狙いすました最高の演出と、それを演じきった声優に拍手を送りたい。
…。
あと、あれだ。
ユーマの「あの」姿。
脚本家は最高の仕事をした。
内容は全く異なるがドラえもんの「鉄人兵団」のラストシーンを思い出した。
とてもSFらしく、ファンタジックでエモーショナルなアイデアだった。
スタプリは宇宙が舞台。
つまりSFなのだから。
【彼方のアストラ】全話視聴後の感想
最後まで軸のブレなかった貴重な作品
作者の中で「やりたいこと」「できること」が明確に定義された上で作られた作品だと感じた。
作者は初期案がボツになった後、主人公をコミュ断ちタイプからリーダータイプへと変更したとインタビューで答えているので、試行錯誤はあったのだろう。
ただ、書きながら考えている作品ではなく、スタートからゴールまでプロットが練り終えた後に書かれたと想像させる完成度、整合性の高さだった。
確かに伏線が露骨だったり、都合の良い展開も多かったけれど、そこには意図がきちんとこめられており、丁寧に描かれていたから不快感は微塵もなかった。
テンポの良さがウリだが、少しテンポが早すぎた気はする。
ただ、これは物語を凝縮したアニメ版だからかもしれない。
漫画版は書店で購入する予定。
amazonで頼むより、書店で購入したい作品だった。
SFであるかどうか
「SFとはなんぞや?」を語るほど、ジャンルに精通していないので、言及は控える。
サイエンスフィクションであればSFなのでは、と思う程度なので「宇宙が舞台」「未来が舞台」であればSFだと思う。
「SFとして正しいか」と「物語として面白いか」は関係がないので、評価軸は別にしたほうがいいんだろうな、と思う。
「キャラクターたちが魅力的に描かれていたか」もまた別の評価軸だと思うし。
100点か0点かという評価は趣味ではない。
どこかの瞬間で満足感を覚えれば、見終わった後に微妙な気分だったとしても「自分の中に価値を残した」ということで、加点される。
この騒動?の中でとても嬉しかったのが『ロケットガール』などの作者である野尻抱介さんが(氏と書くのもなんだか)きちんと作品を褒めていたことだった。
ライトな小説もハードな小説もかき分けるSF作家界の大御所(といっても差し支えないはず)から評価されたというのは、作品のファンからすればとても誇らしいことだっただろう。
そういえば、綾辻行人さんもツイッターで「面白かった」と言っていたけれど、他の小説家や漫画家は視聴していたのだろうか。
キャラクターを描いた作品
『彼方のアストラ』が評価されたのは、丁寧に伏線を回収し、それを分かりやすく伝える構成力もさることながら、やはり「キャラクターの描き方」がもっとも評価されたところではないだろうか。
カナタやザック、キトリーといったキャラクターたちは、いずれもが設定だけを見るとパターン化されたオリジナリティのない(ない、は言い過ぎか)存在に見える。
けれど、彼ら彼女らが「事態について反応する(リアクション)」と、途端に血の通った愛すべき人物へと変化する。
視聴者が個別のリアクションと、それがキャラクター間で連鎖反応(交流)する様子を目にすると、手助けできない画面外の傍観者として、強い感情移入が発生する。
単にリアクションを起こせば感情移入できるというものではなく、作者が描く「地に足のついた現実味のあるリアクション」こそが、この感情移入を引き起こしている。
作者は前作『スケットダンス』にてギャグを豊富に披露した。
ギャグは読者の感情に問いかける高度な営みだ。
泣かせたいなら、大切な人間を殺せばいい。
怒らせたいなら、主人公の愛すべき人にヘドが出るような不幸をもたらせばいい。
しかし「笑い」となると、難しい。
読者のパーソナリティ(知識、モラル、環境、個体差)によって、面白いか面白くないかが分断されてしまう。
人を笑わせるためには「道具」として「相手が持つ日常」を利用するしかない。
「相手が持つ日常」を利用するには「相手(読者)のことを想像し、分析する」必要がある。
つまり、ギャグを知る人は客を知る人なのである。
だから、作者の篠原健太さんは、読者の日常=何を見せればどう感じるのかを研究している人だと想像できる。
作家と呼ばれる人がそういった性質を持つのだとしても、ギャグは特にリサーチが求められる。
まとめ
『彼方のアストラ』は言葉巧みに視聴者を誘導し、それを完了させた稀有な作品だ。
巧みさ故に反感を覚える可能性もあったが、根本にはストーリーではなく「キャラクターを丁寧に描く」ことが据えられているため、反感の機会は減少しているか、失われている。
非常にありがたいのが、作者の価値観について信頼がおけるため、今後どのような作品が発表されようとも、期待しかないということだ。
似た作家として石黒正数さんが挙げられる。
この作品をアニメ化しようと考え、尽力した人々。
そして監督と脚本家のお二方。
もちろん原作者に対しても、感謝の念しかない。
そして、悔しいなー。
こんなきちっと作られた作品って、珍しいんだよなー。