今日は「や」の気分

自分が触れて感じたことを伝えるブログです

【感想】『星合の空』第10話

※あとで体裁は整える

 残り話数はわずか。大会が始まり、テニス部の活動もいよいよ佳境に入る。前哨戦となった2試合は、序盤こそ勝利の予感がするものの、実力の差が表れる後半になると崩れだす。2つのペアは結局勝てないけれど、何か確かな絆と、ほんの少しの自信を身に着けて、見えない明日から身を守る術を得たように思える。

 マキとトウマのペアは、飄々としているマキに対してメンタルのもろいトウマとあって、どうにも雲行きが怪しい。どうせ勝てない、勝つことだけが重要だと呟くトウマは、この試合で何かを掴めるのだろうか。

 なぜトウマは勝ちにこだわるのか。母親との確執は、これまでは仲が悪いだけと思わせておいて、どうやらもう少し根深い因縁がある様子。察するに連れ子か養子のように思えるが、いかんせん他のメンバーの境遇も似たようなものなので、トウマならではの特徴となりづらい。すべてのキャラクターが別の過去を持つ必要はないけれど、これまで虐待やらジェンダーやら盛り込んで差別化しているので、トウマも「ならでは」の過去を持つのだろう。

 残り話数が少ないなか、この物語はどういう着地を目指しているのか。最初はエンタメ的な着地、提示された問題の解決、あるいは破局を目指しているのだろう、目指してほしいと思っていた。ただ、作品が「アニメ的な」ではなく「小説的な」決着を求めているなら、必ずしも劇的なおしまいは迎えないのかもしれない。たとえば藤野千夜の作品のように、ほんの少しの変化が描かれれば、それでキャラクターたちにとっては大きな勝利なのかもしれない。テニス部での活動がなければ仲間たちとの絆と結ばれず自信を持つ機会も訪れなかった。その小さくとも確かな塊が、やがて訪れる大人への階段を昇るだけの力となる。テニス部が復活するきっかけとなったのはマキだから、彼は主人公なのだけど、テニス部の面々、あるいは周辺の人々の誰が欠けても今の状況にはつながらなかったのかもしれない。そうであれば、主役とその他、メインとサブといった括りは陳腐でいかにも分かった風で、愚かしい。エンタメとしてはどうかと思うけれど、キャラクターの人生をちゃんと描こうとしたら、こういう物語になるのかも知れない。

 毒親、モンペとイヤな大人(しかも自分の親!)がたくさん登場する作品だけど、現実の「問題のある親」はこんなものではないだろう。親たちの虐待の末に殺されてしまった子どもたちのニュースなんて、毎年目にする。モンペの話なんて、ニュースにならないだけでもっと多くの事例が報告されているのだろう。(なにせ除夜の鐘にクレームが入る世の中だ)確かに作中に多くのイヤな大人が集まりすぎではあるけれど、その中身は案外ライトに描かれている気もする。『僕だけがいない街』の加代(かよ)のほうが、もっと辛く当たられていた気がする。

 さて、星合の空はどのような結末を迎えるのだろうか。

【感想】『星合の空』第9話

『星合の空』第9話

ふうむ、監督は心を病んだのか?

確かに今まで「親と子の問題」について描いていたが、それにしても詰め込みすぎだ。残り話数のことを考えると、ただ子どもたちが可愛そうで、親たちがバカのように見えるだけで、何も解決しないまま最終話を迎えてしまうのではないか。

もっと恐ろしいのは、実際にDVを受けている子どもたちからすれば、そのことをモチーフにされるだけでも憎らしいだろうに、ささっと適当に解決される可能性があることだ。ここまで風呂敷を広げておいて、残り話数でキレイに収められる気がしない。収めるなら、試合を通じて、突然親子関係が修復されるしかない。けれど、そういう話になってしまったら、駄作になってしまう。親子関係のリアリティを描こうとチャレンジしたはずなのに、その解決がご都合主義では目も当てられない。

今のところ、解決の糸口は見えない。どうやって着地させるのか。

 

保健室のシーンでは年甲斐もなく不安になってしまった。バビロン7話では「まあセブンもあるしな!」と達観していられたのに、幼い少女と問題をかかえた少年というのはどうにも心臓に悪い。性的な事件につながらなくても、何らか少女に傷をつけるのはやめてほしい。バビロンのように「このアニメはひどいことをします」と宣言されていない分、唐突に恐ろしげなことが起きるのではと心拍数があがってしまった。

 

鬼滅の刃』1話と2話と3話を見て

台詞が多い。なぜだ。

まるでワンピースを見ているようだ。

絵だけで成立する絵力があるのに、なぜ状況描写を主人公の心情で事細かに説明させるのか。不安なのか。編集の入れ知恵か。それとも読者にとっては「こう考えていますよ」という確かな正解が提示されていないと不安なのか。描写だけじゃ意味が分からないのか。

怖い、それなら手を震わせたり、歯の根が合わない様子を描けばいい。

なぜ「怖い…!体が竦んで身動きが取れない!まるで全身が石になったみたいだ!逃げなきゃいけないと分かっているのに、それができない!」みたいな表現なのか。

2話で鬼が「くそ、伸ばした髪が絡まって」的な台詞を言うのには苦笑してしまった。

台詞が悪いというわけでもなく、ただ多くて長い。

絵がうまいだけに、何をそんなに説明する必要があるのか分からない。

 

でも、もしかしたら今はこの「説明する」台詞のほうが親しみやすいのかもしれない。あるいは1コマ内での情報量が多いほうがお得に感じるのかもしれない。あるいは描写に対する読解力が落ちているのだろうか。

考えたことがなかったが、実は「説明的な」漫画、あるいはコンテンツが増えていたりしないだろうか。多くの読者がSNSで自身の心情を語るようになって、むしろ心情や独白のない作品は不自然に感じられるのかもしれない。

 

となると、作品は「演劇的」になっていく。

 

うーん、どうかな。

ドクターストーン』が説明的なのは作品の方向性だし。

原作を読んだことはないけど『呪術廻戦』も説明的だったら、少なくとも今のジャンプは説明的な作品を推し進めていることになるのかも。

なんだろうな『波よ聞いてくれ』だと台詞の多さは一切気にならないんだが。

2019/12/06:雑記

『星合の空』について思うこと(1)

好みの作品だけど、色々と思うところはある。演出と作画に対して、脚本というか「台詞」が少しくどい気がする。語りすぎと言ってもいい。

この作品では問題のある親(なぜか母親だらけ…マキの父親を際立たせるためか)が多く登場する。その台詞が妙に直接的ななじりで、ステレオタイプに感じられる。

たとえば8話、モンペと友人から言われるある登場人物の母親。彼女は息子を大事に思うあまり(もちろん、大事にしている「つもり」だが)部活動について問題視し、クレームを学校に入れて部活動を妨げてしまう。

その際のやりとりがこうだ。

 

「日曜日に部活の集まり? 何をするのよ?」

「聞いてない! だいたいバーベキューなんて、部活動と関係ないでしょ。そんないい加減な集まり」

「ロクな子たちじゃないでしょ? ソフトテニス部の子たちなんて」

「それに、お酒も飲めないくせにバーベキューなんて、楽しいわけないでしょ」

「だいたいね、今の時期からちゃんと勉強しないと高校受験のとき大変なのよ?」

「もう2年なの!」

ソフトテニスなんてやっててもいいことなんてないし、時間の無駄。さっさとやめて」

「一度だけ、練習試合を観に行ったけどね。顧問の先生もいい加減だし、部活の子たちもヘラヘラしちゃって試合もすぐに負けて。アンタなんか全然活躍できなくて。わたし恥ずかしいったらなかった。」

「じゃあ次は? 勝てるの? バーベキューなんてのんきなことやって」

「言うことを聞きなさい!」

「アンタが心配だから言ってるのよ?」

「わたしはアンタの親なんだから!」

 

子どもの自主性を軽んじて、自身が望む姿にコントロールしようとする親の姿が描かれている。同時に、息子が所属しているコミュニティに対して難癖をつけることで、そこからの離脱を狙っている。

それを描くために、ここまでの台詞量は必要だっただろうか?

 

畳み掛けるように難癖をつけてくる親に対して、不満が爆発するという意図があった。だから、母親は饒舌に語る必要がある。とすると、台詞が多いこと自体は問題ないのかもしれない。ぽつりぽつりと反論して、最後に爆発するのも悪くはない。

ふむ…台詞量に違和感があるわけじゃないのか。

母親の言動が支離滅裂だからか?

 

親が自分の価値観を息子に押し付け、息子がそれに抗う。

価値観を押し付ける=部活批判、コミュニティ批判、顧問批判、才能否定、自主性否定

 

ああ、そうか。

バーベキューのくだりの「お酒も飲めないのに楽しいわけない」部分が不自然に感じられるのかも。理不尽なことを言う、という意図なのかもしれないが共感しづらい台詞だった。ステレオタイプな母親像を描くために、わりとそれっぽい台詞を選択しているにも関わらず、この台詞だけ妙に個性的だ。

「バーベキューなんて、飲み会に誘う上司と同じ、短絡的なのよ」

みたいな台詞だと共感できたかもしれない。

 

『星合の空』について思うこと(2)

マキがユウタと会話するシーン。ここでのやりとりが「監督の考えをキャラに言わせてる」という感想を目にした。自分はそこまで気にならなかったが、確かにメッセージ性の強い、やや露骨とも感じられるシーンだった。

では、どういう脚本だったら「うまい」と思われるんだろう?

自身の性意識に思い悩むユウタに対して、知り合いとの付き合いを交えて寛容な態度を示すマキ。

・自分の身近に性について悩みを抱えた人がいた

・自分は、その人を好意的に思っている

・他人にはなれないので完全に悩みを理解することはできないが、想像することはできる

・ユウタの悩みについても間違っているとは思はない

これを台詞ではなく「行動」で示せばよかったのか?

あるいは、もっと自然な台詞だったらよかったのか?

志村貴子なら「ニトリくん、かわいい! すっごくかわいい!」の一言で色々な問題をすっとばすんだろうな。

あるいは「へ? 似合ってるけど?」「似合ってますか…」「うん、あたしより可愛いくらい」みたいなやりとりで「自分がやりたいことをやって、しかもそれがふさわしいならなんの問題があるのか」と感じさせる気がする。(ニトリくんとアンナちゃんの会話なら)

千葉さんなら「問題ない! だって、すごく似合うんだもの…(口元を抑えて赤面)」って感じだろうか。

ニトリ「千葉さんは、思ったことをはっきり言うね」

千葉「ごめんなさい…でも! 本当だもの!」

ニトリ「…ありがとうございます」

千葉「ううん! 私の方こそ嬉しい! 私…今日のことを一生忘れないわ…」

とか言いそう(長い妄想だなー)

 

人の悩みに共感し、理解を示すってのはどういう行動で表現できるのだろう。

 

鬼滅の刃:1話』について

妹を背負って丸太を飛び越えるシーンのアニメーションがすごすぎる。

うつのみやさとるを思わせる立体感のある動き。

肉体の重さ、妹の重さ、疲れ、急いでいる様子、雪の深さ…すべてが統合されたアニメーション。

CGかもしれない…。

でも、あのシーンだけCGにするなんてことあるか?

カメラが遠いから、キャラが小さいときはCGにする、という方針かもしれん。

すごすぎる…美しい。

 

鬼滅の刃:2話』について

落とし穴から這い上がるシーンのアニメーションがすごすぎる。

これもカメラが「丸太を飛び越える」シーンと同じくらいの距離。

CGなんだろうか…うますぎる。

鋼の錬金術師』アニメ版(オリジナル脚本が多いほう)の吉成鋼パートを思わせる細かい枚数で立体的な空間移動。

戦闘シーンのアニメもすごいんだけど、こういう細かい部分のほうが燃える。

 

【感想】星合の空:第8話

ここに来て、ようやく理解した。なぜこの作品が好きなのかを。
それは…志村貴子だ!
放浪息子』のあの雰囲気、空気感…それがこの作品にはあるんだよ!
 
中学生たちの揺れ動く繊細な心を、地に足のついたリアリティを交えつつ、そのセンチメンタルさたるやグサグサと読者の心にエモーショナルな共感を巻き起こすあの志村貴子の。
 
ということは、だ。
登場人物がばばーっと出てきて、そのいずれも何やらスタメンはれそうな魅力を持っていて、作者のフォーカスが各話ごとに変わるってこと。
志村貴子の作品は、主人公はいるものの、どうやらその主人公が物語の軸ではない。
「今回の話はこの子の話だよ~、それからこの組み合わせの話にもしてみたよ~」という自由奔放さ。
ひええ、ニトリくんがほとんど登場しないけど、面白い…!
となる。
 
『星合の空』はマキを中心として、その周囲を旋回する衛星である生徒たちを描く。
マキにフォーカスする話もあれば、生徒にフォーカスすることもある。
それに、太陽系全域というか、マキを含めた部員全体を俯瞰することもある。
 
この物語に主人公は存在する。
それはマキだ。
けど、主人公としての役割は「話の中心にいる」ってことじゃない。
「誰かとつながってる」ってこと。
そのつながりに「相手のことを理解するんじゃなくて、想像する」って考えがある。
 
なるほどなー。
「マキとトウマの活躍が少ない」って思うのは間違っていたのかも。
「マキと誰かの会話をもっと見たい」って思ったものな。
 
もしかしたら、物語の最後でマキが失うものは、マキ自身なのかもな…。
 
それはそうと。
 
今回もミツエさんがもじゃかわいい。
皮肉屋だけど気骨があって、度胸もある。
でも、そういう虚勢の裏には、当然しんどさがあるのよな。
 
さて、今回の話、レイアウトと演出がすごくよかったので、スタッフに感謝しなければ!
誰がどういうキャリアか調べずに書いてますよー。(監督は除く)
 
脚本は監督でもある「赤根和樹」さん。
絵コンテは「加瀬充子」さん。
演出は「名和宗則」さん。
演出補佐は「田中タカユキ」さん。
 
スタッフについて調べる前に、自分が感じたことを書いておこう。
 
・学校の中の色々な場所、角度を映していて「学校を舞台とした作品」という感じがすごくでていた
・背景さんがんばった~
・窓が印象的。エフェクトを強く炊いているわけではなく、じんわりと休日の昼間っぽさが出ていた
・学校の中の窓も印象的。ただの白と言えばそうなんだけど、生っぽさを感じた
・部屋の中のレイアウトがぎゅぎゅっと狭い感じがなんだかリアルに感じた
・狭い空間で自分の価値観を話し合う様子がとても良かった
・2人が立っているのではなく、座っているのが良かったのかも。普通、立って話はしないよね
・マキがミツエさんに顔を寄せて、ミツエさんが怒りつつ恥じらうのがよかった!(よかった!)
・ミツエさんが美術準備室?を訪れてからの一連のシーンがレイアウト、作画ともに好み(うまい、というより好きなんだ)
・なんだろう…手と指と骨にこだわりを感じた
・ミツエさんが肩をすくませたとき、ゆるやかな直線で処理しているのいいなあ…ジブリ味を感じる
・ミツエさんがスカートを握りしめたときの手の形、指の形がきれいだな…
・この感想を書くときに、アマプラで無音声で同シーケンスを流してみたけど、引き込まれるってことは演出がいいのでは!
・最後、いつもの場所でたそがれているミツエさん、そこに駆け寄るマキ…やや遠いカメラがいいなあ!
・なんか、このカットだけで泣ける…なんだろ、やるドラ味というかI.G味を感じる(味、味うるさいな…)
・風景の中に人物がいる、その距離感が現実ではあたりまえで…あとは若干右下に向かって斜めなのがいいのかな
・なんだか劇場版のようなレイアウトに感じられた
 
…よし!
あとはスタッフの経歴を調べてエールを送ろう!
 
まずは「加瀬充子」さん!
ほうほう「かせあつこ」さんね、あつこって読むのか…げえ!なんだこの経歴!
初演出が『闘将ダイモス』って、どんだけベテランだ!
日本で初めてロボットアニメの演出を担当した監督だと!
パトレイバー』の絵コンテね…ほうほう。
『ママは小学4年生』の絵コンテと演出ね…ほうほう!
アイアンリーガー』に『リューナイト』…ははあ!
…うーむ、その先も経歴がすごい。
さすらいの女監督(絵コンテ)ってところか。
 
いきなり大物が登場したが、次だ!
名和宗則」さんだ!
「なわむねのり」さんね…げええ!
『EVE ZERO』のアニメ作画監督やってるじゃん!(そこかい)
どちらかというと萌え作品を監督することが多いけど…それは絵がうまいからだろうな。
柔らかい線をかけないと、萌えやエロは描けないものな…たぶん。
魔法遣いに大切なこと』の作画監督もやってるな…そりゃ、空気感があったかくなるわ。
 
よし…最後だ!
「田中タカユキ」さん。
ほうほう…ははーん。
ヒートガイジェイ』で赤根監督とつながったのね。
ふむ『ノエイン』もやってるか…へえ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』もやってるぞ。
あとは『プリキュア』もやってるから…日常描写は得意とするところか。
 
スタッフの皆様、おつかれありがとうございました。
と勝手に書いておく。
誰かが作らないと、作品はこの世に生まれないのだ…。
それから、美術準備室のシーケンスを担当したアニメーターのかた、ありがとうございました。

2019/11/30:雑記

『彼方のアストラ』思い出し

カナタはどういう主人公だったか?
ちょっとヌケたところがあるが、抜群に頼れる兄貴分だった。
最近では珍しい「熱血」タイプの主人公だったとも思う。
視聴者は、なぜ古臭いタイプの主人公像にも関わらずカナタを気に入ったのだろう?
 
少しヌケたところがある、つまり隙があったから、親しみやすさを覚えたのだろうか。
あるいは危機的な状況を勇敢にも乗り越えてきたから応援したい気持ちになったのか。
子ども時代の悲劇、宇宙旅行で発生した事故という不遇な状況に憐れみを覚えたのか。
 
カナタは主人公だったが、主人公と捉えて視聴していただろうか。
あのメンバーの中の一人、リーダーシップを発揮する英雄的キャラとして認識していなかったか。
『彼方のアストラ』は主人公とその他の物語ではなく、あのメンバーたち全員の物語だった。
 
しかし、確かにカナタは主人公ではあるのだ。
主人公を「もっとも大きな存在」として考えると、創作の可能性が狭まるのかもしれない。
主人公は「主として決断を下し、物語を進行させる者」程度の役割なのかもしれない。
あるいは「出来事の中心にいる者」でしかないのかもしれない。
 
『彼方のアストラ』は「主人公とその他」の物語ではなく「集団とリーダー」の物語だった。
 
うーむ…
 
物語は主人公とは関係なく繰り広げられる。
それを誰の視点から捉えるか、という問題があり、割り当てられたキャラが主人公になるのかもしれない。
 
ハリケーンが訪れたアメリカで、ハリケーンの外から見るのか、内側から見るのか。
外側であれば主人公は大統領だったり、ニュースキャスターだったり。
内側なら災害に巻き込まれた父親だったり、休暇に訪れていた海軍兵士だったり。
職業はさておき、同じ出来事でも描かれる物語が異なる。
 
加えて、主人公の役割…というよりは主人公に適している者の資質は「物語をより盛り上げる」ことができるか、だ。
『彼方のアストラ』の世界、物語を一切変えなかったとして、主人公がザックだったら景色は変わっていただろう。
もしかしたら「つまらなく」なっていたかもしれない。
カナタは主人公だから主人公らしく行動しているが、それは実は逆で、
主人公らしく振る舞うから主人公になりえるのかもしれない。
 
つまり…
 
おおまかな物語があって、これから主人公を作るとき…
主人公像から作るのは間違っていて、物語を盛り上げるためにはどういう主人公像が最適かを探し求める。
「危機を乗り越える」だけではなく「危機に遭遇する」キャラのほうが物語の暴風圏に近づける。
危機に遭遇するということは、危機を自分で作り出すトラブルメーカーか、危機的状況に陥りそうな仲間のもとに積極的に近づくリーダータイプになる。
 
惑星サバイバルというジャンルにあって、どういう主人公像がもっとも話を盛り上げるか。
篠原健太がもともと想定していた根暗でひねくれた主人公だと危機的状況に「巻き込まれる」。
カナタなら、積極的に危機の中へ「突っ込んでいく」。
こちらのほうが、物語が大きく動く。
物語で一番恐ろしいのは停滞と退屈だ。
だからカナタは、一番動き回るのだ。
 
たぶん。
 

『星合の空』7話感想

・試合は白熱、とっても面白かった
・意外にしっかりした試合描写といえば羅川真里茂の『しゃにむにGO』を彷彿とさせる
・ちょっと強豪校のエースにしては杜撰なチームワークだけど、中学生だからぎりぎり許容…か
・中学生のメンタルというか行動を分かってないから、なんでも許容できる…けど、嘘くささも感じる
・マキとトウマは顔を近づけすぎですよね?
・視聴者に媚びて演出したのなら、イヤだなー
・でも、みつえさんなんて萌えてください、と言わんばかりの露骨演出だし…じゃあいいか!
・みつえさんがモジャかわいい
・アラシとの試合中、オープニング曲で盛り上げつつ、勝敗の行方が不明になり始めたら無音になるの最高
・テニスの効果音がすごく気持ちがいい
・マキの「練習よりもっと良いものが…」的なセリフ、先生の登場でうやむやになってもやもや
・全12話だろうに、ほぼ全員に家庭の問題があって収拾がつくのだろうか…
・マキとトウマの物語かと思っていたが、実はそうではないのだろうか…
・普通に見ていれば主人公はマキで、それは「物語を一番盛り上げる機能」があるから選ばれているはず
・ただ、その物語がまだ見えない
毒親、虐待、トラウマ…そういったものを熱中できるスポーツと、仲間たちとの絆で乗り越える物語…ではないのか?
・もし全員の家庭環境に問題があるのなら、マキが主人公として据えられているのは「もっともひどい」「現在進行系」「華がある」といったところか
・マキ以外の面々は、苦難を乗り越えるが、マキだけは乗り越えられないのかもしれない
・他の面々は犠牲を払うことなく乗り越えることができるが、マキだけは犠牲を払うことになるのかもしれない
・主人公に据えられた少年は、もっとも苦難が待ち受けているのだから
・マキが何を失うのか、それが8話以降の肝になるか

2019/11/27:雑記

星合の空:第6話

 
:強豪校と戦うのはいいとして、1セットでも通用する(勝つ)必要はあったんだろうか?
 部活を怠けていた生徒たちが、メンター(指導役)が入った程度で追いつけるだろうか?
 そもそも「ソフトテニスの実力が向上する描写」は本作のテーマに即しているか?
 
:バッタの舞に「嘘っぽい」と感じるのはなぜか?
 自身にそういった体験がないから、リアリティがないのか?
 現代のリアルな中学生(運動部に所属)を知らないからそう感じるのか?
 キャラの日常描写に「幼い」演出が足りていないせいか?
 →マキの父親に対する態度、対応など幼い描写は多々登場しているが…
 全体的に子どもたちが世間、大人に対してシニカルすぎるのか(大人びている)
 
:アラシ(敵のエース)にリアリティがない
 キャラというより、人柄の良さそうな監督が、あの態度を放置している違和感
 監督自体がクズっぽければ問題はない(あだち充作品でよく登場する悪役監督と悪役エース)
 
:まるまる1話使ってテニスの話で良かったのか?
 本作品のテーマはいったいなにか?
 メンタルの変化(成長だけとは限らない)を描かればいいのであって、
 テニスはその装置に過ぎなかったのでは?
 →マキと男子生徒たちとの交流(絆)を描くためには、試合描写が必要だった?
 →アクセントとして使えばいいのであって「テニスアニメ」としての体裁を重視する必要はないのでは
 →「ソフトテニスを交えた人間関係」を描くことに意味がある?(隠されている?)
 
:アラシがボールの返し先を探す様子を「カメラの振り方」で演出するのは良かった
 →「エースを狙え」でもやってるかも?
 →とはいえ「主観視点」により臨場感と一体感が出て、アラシのすごさがダイレクトに伝わった
 
:カナコ(もじゃっ毛女子)は相当ステキキャラだが、テーマに活かされている感じがない
 →マキとカナコのラブストーリーが見たかった…
 →こじらせ女子との恋愛がみたい欲求
 →性格が歪んでいて、それでいて小動物的な雰囲気がある
 

バビロン:第7話

 
:衝撃的な展開?
 →アニメだと、ここまで残酷なのはレア
 →グロテスクな描写自体は毎クール数本ある(はず)
 →視聴者のメンタルをえぐってくるのはサイコパス1期以来?(そんなはないか)
 →ベースには実写映画の「セブン」「ソウ」や「ダークナイト」がある?
 →アニメにしては残酷だが、実写なら(映画なら)もっとエグくするだろう
  目隠しと猿ぐつわは外したほうが悲鳴が聞こえてエグさが増す
 →曲世愛が「悪を愛する女」であるなら、残酷さを減らすことは、キャラ設定との不一致を感じる
 →とはいえ、これ以上やっても露悪的、悪趣味なだけか
 
:瀬黒さんが「剣道の有段者」である描写=身体的に優れている=軽やかで自由な少女のイメージを
 与えてから最後の展開を持ってきたのはうまい展開だった
 →蝶の羽根がもがれる如く、肉体的な死という事実だけでなく、視聴者のイメージを汚す演出
  だからこそ、四肢を切断=行動不能=可能性の死という展開にする必要があった
 
:死ぬという結末は変わらないのに、過程(どのように死んだ、殺されたのか)によって感情移入の度合いが異なる
 
:野崎まど作品には「魅力的なのにいつのまにかフェードアウトする女性」が数多く登場する
 なぜなら、それ以上に魅力的で不思議なメインヒロインが登場するから(メインヒロインは能力者か異常者が多い)
 「正解するカド」ではサブヒロインかと思われた女性がメインヒロインに昇格する下剋上
 「バビロン」ではサブヒロインにフェードアウトではなく「残虐な消費」を与えた
 ちなみにサブヒロインは「有能」「ツンデレ(デレてないかも)」「実直」「サポート役」という共通点がある
 

いまこそ『正解するカド』と野崎まど

今、野崎まどの時代が来ている

嘘である。

野崎まどの時代はずっと前から来ていたのだ。

デビュー当時から。

 

と、いいつつも野崎まどを知ったのはアニメ『正解するカド』からだった。

古参ファンからすれば「おっくれってるー!」であろう。

 

だいたいにして、カドが放送された時から怪しかったのだ。

すでに刊行され完結していてある程度の売上が見込める原作小説の映像化ではなく、いきなりのオリジナル脚本に抜擢されるなんて。

これはもう、出資者の中に野崎まどファンがいるに違いないのだ。

そしてそれは木下グループに違いないのだ。

エロマンガ先生』と『ねこねこ日本史』に出資している時点で限りなく黒なのだ。

のだのだ。

 

なにが言いたいのか

野崎まどは不当に扱われている。

その不名誉を返上するためにこのメモを記するので…はなく、単に「なぜ正解するカドはこれほどまでに叩かれたんだろ」「そんで、なぜみんなは野崎まどを毛嫌いするのだろ」と思ったので、自分の中で整理したくなっただけだ。

 

野崎まどは不当に扱われている。

扱われるようになってしまった、カドの後半展開によって。

 

正解するカド』とはどんなアニメだったか?

荒唐無稽で壮大なスケールのSFでありながら『シン・ゴジラ』同様のリアリズムによって見るものすべてを魅了し、中盤の「ワム」展開で度肝を抜き、最後の数話でファンをアンチに変貌させた嵐のような作品である。

 

どんなアニメかって?

第0話で零細企業の土地買収問題を巧みな外交手腕で解決したアニメだよ!

いや、冗談抜きにそういう話がある。

この地味な話が大層面白い。

社会派だねー、となんだか賢くなった気分で見ることのできる0話。

ワクワクしながら1話を見たら「この感じ『シン・ゴジラ』だ!」と0話と同様のリアリズムを追求しながら怒涛のSF展開を繰り広げる。

つかみはオッケー、あとは脚本の荒波にもまれようぜ、という作品。

 

ええと、つまり面白そうだぞと思わせ、実際に面白かった作品です。

 

しかしながら、前述通り物語が佳境に入ってからどんでん返しを超える大どんでん返しを行い、アンチを大量に生んでしまった。

 

その結果、不当に扱われるようになってしまったのである。

 

不当ではないのでは?

いや、不当なんです。

 

評価するカド

いつの頃からか、視聴者は「完璧な脚本」「完成度の高い脚本」を求めるようになってしまった。

ここで言う完璧とは「1話から最終話まですべてがハイクオリティで完璧」ということ。

エヴァンゲリオン』のTV版が放映されていた頃は、もちろん完璧なんて考えたこともなかった。

無限のリヴァイアス』にしたって、完璧かどうかなんて考えなかった。

色々なアニメが作られて来たものの、完璧な脚本は「映画」にこそ当てはまる考えであって、テレビでは「面白いといいなあ」と期待をもって眺める程度だった気がする。

それがある作品以降変わってしまった。

その作品は『魔法少女まどかマギカ』である。

虚淵玄が脚本を書いたこのアニメは、その完成度でもって「全話の完成度が高い」といういまだかつて無い高水準のテレビアニメを作り出してしまった。

それも、オリジナルアニメで。

このアニメの登場をもって、視聴者の評価基準が更新されてしまった…ような気がする。

 

すべての話数は連続して連結して無駄な話があってはならない。

少しでも全体のテンションを阻害する話は嫌われる。

1話単位でも完成度が高く、全話通しても完成度が高いのが当たり前。

 

このシビアな評価基準が世間にもたらされたことで、カドは不当に扱われるようになってしまったのである。

 

…なんのこっちゃ、である。

 

※もっと言うと現実社会の「成果主義」が作品視聴の態度に影響していると思われる

 

過程は無視される

まどマギの登場で評価軸が一変し、人々は「過程」を無視するようになった。

全話見終わった後の感覚が全てで、それまでの楽しさは排除されてしまう。

仮に全12話のうち11話が面白くても、最後の1話がつまらなかったら、その作品は「つまらない」と判断され、拡散されてしまうのだ。

 

まてまて、過去の自分の気持ちをちゃんと大切にしてみよう。

 

カドは全12話だ。

簡単にまとめると、以下のような内容になっている。(見たことある人向け)

1話:空港に超巨大立方体が出現する

2話:立方体の外に異星人が出てくる

3話:無限エネルギー装置ワム

4話:孤立する日本

5話:天才の折り紙

6話:おひっこし

7話:自分を自分が認識してる

8話:テレビを見るのは自己責任でお願いします

9話:魔法少女現る

10話:はるか昔の話

11話:服のセンスに絶句

12話:車とともに颯爽と登場!

 

うーん、こうやって並べると面白いな…

 

この抜粋タイトルを見ながら思い出してほしいが、8話までは抜群に文句なしに面白かった。ツイッターで「面白い!」とツイートしている人が多数いたことを覚えている。

 

問題は9話だ。

9話の展開がこれまでのリアリズムをぶち壊す衝撃的な展開だったため、視聴者は混乱した。

8話までが面白すぎたため、9話からの変化に戸惑い、好意は敵意へと変わった。

 

たしかに、9話以降は8話までとはベクトルが代わり、空想の度合いが強まってしまった。別の作品のようにも感じられる。

だが、カドの8話までは誰しもが認める面白さだったはずだ。

その気持ちを大切にして、この作品を評価してみてほしい。

8話までの面白さを考えついた人間、つまり野崎まどは本当にダメな脚本家だっただろうか。

本当にダメな脚本家は、あんなに面白い8話を作ることはできない。

あの8話までを評価したのなら、残りの話数の評価がなんであれ、野崎まどを無能扱いしないでほしいと願う…うーん、いったいどんな立場なのか。

 

来ますよ、野崎まどが!

いや、もう来ているのだ。

デビューの当時から。

 

『バビロン』は絶賛放映中で『HELLO WORLD』は劇場作品になった。

気づいているだろうか、この流れと同じ過程を経ている脚本家がいることに。

そう、虚淵玄である。

テレビ業界には「映像化されやすい脚本家、小説家」がいる。

貴志祐介だったり、万城目学だったり、池井戸潤だったり、有川浩だったり。

アニメなら虚淵玄だ。

ここに野崎まどが加わっていることに気がついているだろうか。

そう、野崎まどの時代は始まっていて、これからどんどん映像化されるに違いない。

なにせ、まだ『Know』が残ってるし『[映]アムリタ』もあるし『なにかのご縁』もある。原作には事欠かない。

 

つまり…?

野崎まどを毛嫌いせずに、じっくりと追いかけてみようじゃないか。

大傑作と出会う日も近い…かもしれない。

 

※ちなみに『Know』が一番劇場向けな気がする