【感想】『星合の空』第10話
※あとで体裁は整える
残り話数はわずか。大会が始まり、テニス部の活動もいよいよ佳境に入る。前哨戦となった2試合は、序盤こそ勝利の予感がするものの、実力の差が表れる後半になると崩れだす。2つのペアは結局勝てないけれど、何か確かな絆と、ほんの少しの自信を身に着けて、見えない明日から身を守る術を得たように思える。
マキとトウマのペアは、飄々としているマキに対してメンタルのもろいトウマとあって、どうにも雲行きが怪しい。どうせ勝てない、勝つことだけが重要だと呟くトウマは、この試合で何かを掴めるのだろうか。
なぜトウマは勝ちにこだわるのか。母親との確執は、これまでは仲が悪いだけと思わせておいて、どうやらもう少し根深い因縁がある様子。察するに連れ子か養子のように思えるが、いかんせん他のメンバーの境遇も似たようなものなので、トウマならではの特徴となりづらい。すべてのキャラクターが別の過去を持つ必要はないけれど、これまで虐待やらジェンダーやら盛り込んで差別化しているので、トウマも「ならでは」の過去を持つのだろう。
残り話数が少ないなか、この物語はどういう着地を目指しているのか。最初はエンタメ的な着地、提示された問題の解決、あるいは破局を目指しているのだろう、目指してほしいと思っていた。ただ、作品が「アニメ的な」ではなく「小説的な」決着を求めているなら、必ずしも劇的なおしまいは迎えないのかもしれない。たとえば藤野千夜の作品のように、ほんの少しの変化が描かれれば、それでキャラクターたちにとっては大きな勝利なのかもしれない。テニス部での活動がなければ仲間たちとの絆と結ばれず自信を持つ機会も訪れなかった。その小さくとも確かな塊が、やがて訪れる大人への階段を昇るだけの力となる。テニス部が復活するきっかけとなったのはマキだから、彼は主人公なのだけど、テニス部の面々、あるいは周辺の人々の誰が欠けても今の状況にはつながらなかったのかもしれない。そうであれば、主役とその他、メインとサブといった括りは陳腐でいかにも分かった風で、愚かしい。エンタメとしてはどうかと思うけれど、キャラクターの人生をちゃんと描こうとしたら、こういう物語になるのかも知れない。
毒親、モンペとイヤな大人(しかも自分の親!)がたくさん登場する作品だけど、現実の「問題のある親」はこんなものではないだろう。親たちの虐待の末に殺されてしまった子どもたちのニュースなんて、毎年目にする。モンペの話なんて、ニュースにならないだけでもっと多くの事例が報告されているのだろう。(なにせ除夜の鐘にクレームが入る世の中だ)確かに作中に多くのイヤな大人が集まりすぎではあるけれど、その中身は案外ライトに描かれている気もする。『僕だけがいない街』の加代(かよ)のほうが、もっと辛く当たられていた気がする。
さて、星合の空はどのような結末を迎えるのだろうか。
【感想】『星合の空』第9話
『星合の空』第9話
ふうむ、監督は心を病んだのか?
確かに今まで「親と子の問題」について描いていたが、それにしても詰め込みすぎだ。残り話数のことを考えると、ただ子どもたちが可愛そうで、親たちがバカのように見えるだけで、何も解決しないまま最終話を迎えてしまうのではないか。
もっと恐ろしいのは、実際にDVを受けている子どもたちからすれば、そのことをモチーフにされるだけでも憎らしいだろうに、ささっと適当に解決される可能性があることだ。ここまで風呂敷を広げておいて、残り話数でキレイに収められる気がしない。収めるなら、試合を通じて、突然親子関係が修復されるしかない。けれど、そういう話になってしまったら、駄作になってしまう。親子関係のリアリティを描こうとチャレンジしたはずなのに、その解決がご都合主義では目も当てられない。
今のところ、解決の糸口は見えない。どうやって着地させるのか。
保健室のシーンでは年甲斐もなく不安になってしまった。バビロン7話では「まあセブンもあるしな!」と達観していられたのに、幼い少女と問題をかかえた少年というのはどうにも心臓に悪い。性的な事件につながらなくても、何らか少女に傷をつけるのはやめてほしい。バビロンのように「このアニメはひどいことをします」と宣言されていない分、唐突に恐ろしげなことが起きるのではと心拍数があがってしまった。
『鬼滅の刃』1話と2話と3話を見て
台詞が多い。なぜだ。
まるでワンピースを見ているようだ。
絵だけで成立する絵力があるのに、なぜ状況描写を主人公の心情で事細かに説明させるのか。不安なのか。編集の入れ知恵か。それとも読者にとっては「こう考えていますよ」という確かな正解が提示されていないと不安なのか。描写だけじゃ意味が分からないのか。
怖い、それなら手を震わせたり、歯の根が合わない様子を描けばいい。
なぜ「怖い…!体が竦んで身動きが取れない!まるで全身が石になったみたいだ!逃げなきゃいけないと分かっているのに、それができない!」みたいな表現なのか。
2話で鬼が「くそ、伸ばした髪が絡まって」的な台詞を言うのには苦笑してしまった。
台詞が悪いというわけでもなく、ただ多くて長い。
絵がうまいだけに、何をそんなに説明する必要があるのか分からない。
でも、もしかしたら今はこの「説明する」台詞のほうが親しみやすいのかもしれない。あるいは1コマ内での情報量が多いほうがお得に感じるのかもしれない。あるいは描写に対する読解力が落ちているのだろうか。
考えたことがなかったが、実は「説明的な」漫画、あるいはコンテンツが増えていたりしないだろうか。多くの読者がSNSで自身の心情を語るようになって、むしろ心情や独白のない作品は不自然に感じられるのかもしれない。
となると、作品は「演劇的」になっていく。
うーん、どうかな。
『ドクターストーン』が説明的なのは作品の方向性だし。
原作を読んだことはないけど『呪術廻戦』も説明的だったら、少なくとも今のジャンプは説明的な作品を推し進めていることになるのかも。
なんだろうな『波よ聞いてくれ』だと台詞の多さは一切気にならないんだが。
2019/12/06:雑記
『星合の空』について思うこと(1)
好みの作品だけど、色々と思うところはある。演出と作画に対して、脚本というか「台詞」が少しくどい気がする。語りすぎと言ってもいい。
この作品では問題のある親(なぜか母親だらけ…マキの父親を際立たせるためか)が多く登場する。その台詞が妙に直接的ななじりで、ステレオタイプに感じられる。
たとえば8話、モンペと友人から言われるある登場人物の母親。彼女は息子を大事に思うあまり(もちろん、大事にしている「つもり」だが)部活動について問題視し、クレームを学校に入れて部活動を妨げてしまう。
その際のやりとりがこうだ。
「日曜日に部活の集まり? 何をするのよ?」
「聞いてない! だいたいバーベキューなんて、部活動と関係ないでしょ。そんないい加減な集まり」
「ロクな子たちじゃないでしょ? ソフトテニス部の子たちなんて」
「それに、お酒も飲めないくせにバーベキューなんて、楽しいわけないでしょ」
「だいたいね、今の時期からちゃんと勉強しないと高校受験のとき大変なのよ?」
「もう2年なの!」
「ソフトテニスなんてやっててもいいことなんてないし、時間の無駄。さっさとやめて」
「一度だけ、練習試合を観に行ったけどね。顧問の先生もいい加減だし、部活の子たちもヘラヘラしちゃって試合もすぐに負けて。アンタなんか全然活躍できなくて。わたし恥ずかしいったらなかった。」
「じゃあ次は? 勝てるの? バーベキューなんてのんきなことやって」
「言うことを聞きなさい!」
「アンタが心配だから言ってるのよ?」
「わたしはアンタの親なんだから!」
子どもの自主性を軽んじて、自身が望む姿にコントロールしようとする親の姿が描かれている。同時に、息子が所属しているコミュニティに対して難癖をつけることで、そこからの離脱を狙っている。
それを描くために、ここまでの台詞量は必要だっただろうか?
畳み掛けるように難癖をつけてくる親に対して、不満が爆発するという意図があった。だから、母親は饒舌に語る必要がある。とすると、台詞が多いこと自体は問題ないのかもしれない。ぽつりぽつりと反論して、最後に爆発するのも悪くはない。
ふむ…台詞量に違和感があるわけじゃないのか。
母親の言動が支離滅裂だからか?
親が自分の価値観を息子に押し付け、息子がそれに抗う。
価値観を押し付ける=部活批判、コミュニティ批判、顧問批判、才能否定、自主性否定
ああ、そうか。
バーベキューのくだりの「お酒も飲めないのに楽しいわけない」部分が不自然に感じられるのかも。理不尽なことを言う、という意図なのかもしれないが共感しづらい台詞だった。ステレオタイプな母親像を描くために、わりとそれっぽい台詞を選択しているにも関わらず、この台詞だけ妙に個性的だ。
「バーベキューなんて、飲み会に誘う上司と同じ、短絡的なのよ」
みたいな台詞だと共感できたかもしれない。
『星合の空』について思うこと(2)
マキがユウタと会話するシーン。ここでのやりとりが「監督の考えをキャラに言わせてる」という感想を目にした。自分はそこまで気にならなかったが、確かにメッセージ性の強い、やや露骨とも感じられるシーンだった。
では、どういう脚本だったら「うまい」と思われるんだろう?
自身の性意識に思い悩むユウタに対して、知り合いとの付き合いを交えて寛容な態度を示すマキ。
・自分の身近に性について悩みを抱えた人がいた
・自分は、その人を好意的に思っている
・他人にはなれないので完全に悩みを理解することはできないが、想像することはできる
・ユウタの悩みについても間違っているとは思はない
これを台詞ではなく「行動」で示せばよかったのか?
あるいは、もっと自然な台詞だったらよかったのか?
志村貴子なら「ニトリくん、かわいい! すっごくかわいい!」の一言で色々な問題をすっとばすんだろうな。
あるいは「へ? 似合ってるけど?」「似合ってますか…」「うん、あたしより可愛いくらい」みたいなやりとりで「自分がやりたいことをやって、しかもそれがふさわしいならなんの問題があるのか」と感じさせる気がする。(ニトリくんとアンナちゃんの会話なら)
千葉さんなら「問題ない! だって、すごく似合うんだもの…(口元を抑えて赤面)」って感じだろうか。
ニトリ「千葉さんは、思ったことをはっきり言うね」
千葉「ごめんなさい…でも! 本当だもの!」
ニトリ「…ありがとうございます」
千葉「ううん! 私の方こそ嬉しい! 私…今日のことを一生忘れないわ…」
とか言いそう(長い妄想だなー)
人の悩みに共感し、理解を示すってのはどういう行動で表現できるのだろう。
『鬼滅の刃:1話』について
妹を背負って丸太を飛び越えるシーンのアニメーションがすごすぎる。
うつのみやさとるを思わせる立体感のある動き。
肉体の重さ、妹の重さ、疲れ、急いでいる様子、雪の深さ…すべてが統合されたアニメーション。
CGかもしれない…。
でも、あのシーンだけCGにするなんてことあるか?
カメラが遠いから、キャラが小さいときはCGにする、という方針かもしれん。
すごすぎる…美しい。
『鬼滅の刃:2話』について
落とし穴から這い上がるシーンのアニメーションがすごすぎる。
これもカメラが「丸太を飛び越える」シーンと同じくらいの距離。
CGなんだろうか…うますぎる。
『鋼の錬金術師』アニメ版(オリジナル脚本が多いほう)の吉成鋼パートを思わせる細かい枚数で立体的な空間移動。
戦闘シーンのアニメもすごいんだけど、こういう細かい部分のほうが燃える。
【感想】星合の空:第8話
2019/11/30:雑記
『彼方のアストラ』思い出し
『星合の空』7話感想
2019/11/27:雑記
星合の空:第6話
バビロン:第7話
いまこそ『正解するカド』と野崎まど
今、野崎まどの時代が来ている
嘘である。
野崎まどの時代はずっと前から来ていたのだ。
デビュー当時から。
と、いいつつも野崎まどを知ったのはアニメ『正解するカド』からだった。
古参ファンからすれば「おっくれってるー!」であろう。
だいたいにして、カドが放送された時から怪しかったのだ。
すでに刊行され完結していてある程度の売上が見込める原作小説の映像化ではなく、いきなりのオリジナル脚本に抜擢されるなんて。
これはもう、出資者の中に野崎まどファンがいるに違いないのだ。
そしてそれは木下グループに違いないのだ。
『エロマンガ先生』と『ねこねこ日本史』に出資している時点で限りなく黒なのだ。
のだのだ。
なにが言いたいのか
野崎まどは不当に扱われている。
その不名誉を返上するためにこのメモを記するので…はなく、単に「なぜ正解するカドはこれほどまでに叩かれたんだろ」「そんで、なぜみんなは野崎まどを毛嫌いするのだろ」と思ったので、自分の中で整理したくなっただけだ。
野崎まどは不当に扱われている。
扱われるようになってしまった、カドの後半展開によって。
『正解するカド』とはどんなアニメだったか?
荒唐無稽で壮大なスケールのSFでありながら『シン・ゴジラ』同様のリアリズムによって見るものすべてを魅了し、中盤の「ワム」展開で度肝を抜き、最後の数話でファンをアンチに変貌させた嵐のような作品である。
どんなアニメかって?
第0話で零細企業の土地買収問題を巧みな外交手腕で解決したアニメだよ!
いや、冗談抜きにそういう話がある。
この地味な話が大層面白い。
社会派だねー、となんだか賢くなった気分で見ることのできる0話。
ワクワクしながら1話を見たら「この感じ『シン・ゴジラ』だ!」と0話と同様のリアリズムを追求しながら怒涛のSF展開を繰り広げる。
つかみはオッケー、あとは脚本の荒波にもまれようぜ、という作品。
ええと、つまり面白そうだぞと思わせ、実際に面白かった作品です。
しかしながら、前述通り物語が佳境に入ってからどんでん返しを超える大どんでん返しを行い、アンチを大量に生んでしまった。
その結果、不当に扱われるようになってしまったのである。
不当ではないのでは?
いや、不当なんです。
評価するカド
いつの頃からか、視聴者は「完璧な脚本」「完成度の高い脚本」を求めるようになってしまった。
ここで言う完璧とは「1話から最終話まですべてがハイクオリティで完璧」ということ。
『エヴァンゲリオン』のTV版が放映されていた頃は、もちろん完璧なんて考えたこともなかった。
『無限のリヴァイアス』にしたって、完璧かどうかなんて考えなかった。
色々なアニメが作られて来たものの、完璧な脚本は「映画」にこそ当てはまる考えであって、テレビでは「面白いといいなあ」と期待をもって眺める程度だった気がする。
それがある作品以降変わってしまった。
その作品は『魔法少女まどかマギカ』である。
虚淵玄が脚本を書いたこのアニメは、その完成度でもって「全話の完成度が高い」といういまだかつて無い高水準のテレビアニメを作り出してしまった。
それも、オリジナルアニメで。
このアニメの登場をもって、視聴者の評価基準が更新されてしまった…ような気がする。
すべての話数は連続して連結して無駄な話があってはならない。
少しでも全体のテンションを阻害する話は嫌われる。
1話単位でも完成度が高く、全話通しても完成度が高いのが当たり前。
このシビアな評価基準が世間にもたらされたことで、カドは不当に扱われるようになってしまったのである。
…なんのこっちゃ、である。
※もっと言うと現実社会の「成果主義」が作品視聴の態度に影響していると思われる
過程は無視される
まどマギの登場で評価軸が一変し、人々は「過程」を無視するようになった。
全話見終わった後の感覚が全てで、それまでの楽しさは排除されてしまう。
仮に全12話のうち11話が面白くても、最後の1話がつまらなかったら、その作品は「つまらない」と判断され、拡散されてしまうのだ。
まてまて、過去の自分の気持ちをちゃんと大切にしてみよう。
カドは全12話だ。
簡単にまとめると、以下のような内容になっている。(見たことある人向け)
1話:空港に超巨大立方体が出現する
2話:立方体の外に異星人が出てくる
3話:無限エネルギー装置ワム
4話:孤立する日本
5話:天才の折り紙
6話:おひっこし
7話:自分を自分が認識してる
8話:テレビを見るのは自己責任でお願いします
9話:魔法少女現る
10話:はるか昔の話
11話:服のセンスに絶句
12話:車とともに颯爽と登場!
うーん、こうやって並べると面白いな…
この抜粋タイトルを見ながら思い出してほしいが、8話までは抜群に文句なしに面白かった。ツイッターで「面白い!」とツイートしている人が多数いたことを覚えている。
問題は9話だ。
9話の展開がこれまでのリアリズムをぶち壊す衝撃的な展開だったため、視聴者は混乱した。
8話までが面白すぎたため、9話からの変化に戸惑い、好意は敵意へと変わった。
たしかに、9話以降は8話までとはベクトルが代わり、空想の度合いが強まってしまった。別の作品のようにも感じられる。
だが、カドの8話までは誰しもが認める面白さだったはずだ。
その気持ちを大切にして、この作品を評価してみてほしい。
8話までの面白さを考えついた人間、つまり野崎まどは本当にダメな脚本家だっただろうか。
本当にダメな脚本家は、あんなに面白い8話を作ることはできない。
あの8話までを評価したのなら、残りの話数の評価がなんであれ、野崎まどを無能扱いしないでほしいと願う…うーん、いったいどんな立場なのか。
来ますよ、野崎まどが!
いや、もう来ているのだ。
デビューの当時から。
『バビロン』は絶賛放映中で『HELLO WORLD』は劇場作品になった。
気づいているだろうか、この流れと同じ過程を経ている脚本家がいることに。
そう、虚淵玄である。
テレビ業界には「映像化されやすい脚本家、小説家」がいる。
貴志祐介だったり、万城目学だったり、池井戸潤だったり、有川浩だったり。
アニメなら虚淵玄だ。
ここに野崎まどが加わっていることに気がついているだろうか。
そう、野崎まどの時代は始まっていて、これからどんどん映像化されるに違いない。
なにせ、まだ『Know』が残ってるし『[映]アムリタ』もあるし『なにかのご縁』もある。原作には事欠かない。
つまり…?
野崎まどを毛嫌いせずに、じっくりと追いかけてみようじゃないか。
大傑作と出会う日も近い…かもしれない。
※ちなみに『Know』が一番劇場向けな気がする