【感想】『星合の空』第四話
なんとなく好き
なんとなく、見始めたら、できが良い。
赤根監督が担当しているというのはうっすら知っていたものの、まさか脚本まで担当しているとは思いますまい。
監督と脚本を兼任しているということは、作品全体の「空気感」と「テンポ(間)」が統一されるということ。
見て「あ、これ気持ちいいな」と感じられたら、そのまま最後まで突っ走れる。
このあたりは生理的なものなので。
どうして好きなんだろう
キャラデザが好き。
この手の「線をちょんちょん」と付け足して目尻を表現している絵が好き。
今では当たり前の処理だけど、初めて目にしたのは宇木敦哉(ウキアツヤ=イラストレーターのmebae)の作品である『センコロール』だった。
だからイラストを担当している『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜』も好き。
いや、あれは作者が田中ロミオ(山田一)だからってことが大きいけど。
どうして好きなんだろう2
やっぱり空気感とテンポ。
あだち充が好きだったり、高橋留美子が好きだったり、石黒正数が好きだったりするのはシナリオもさることながら、やっぱり空気感とテンポ。
これは生理的なものなので…(2回目)
じゃあ、具体的にはどういうところか。
「余裕がある」
「余白がある」
「想像にゆだねる」
「なんとなく通じる」
「仲いいねえ、君たち」
という感覚だろうか。
製作者が自分の好みを把握していて、だからこそ「余計で必要な間」を付け足すことができている。画(絵ではなく、構図、レイアウト)に乗せられる会話という情報は、確かに物語を推進するための情報ではあるけれど、それをどう伝えるのか=表現、ここに作者の本質が如実ににょにょにょと溢れたり滲み出たりする。
つまり、作者が優れているからこそ、余裕があり、その余裕が物語運びだったり演出だったりに現れている。
それが気持ちいいんだな~。
『星合の空』は結構しゃべるシーンが多いとはいえ「必要な情報」というよりは「必要なリアクション」や「親しみを覚えるリアクション」が多いと感じる。
シチュエーションに対してキャラクターがぽろぽろとリアクションを返してくれるものだから、思わずにこにこして見入ってしまう。それに、セリフ運びがキレイ。
もちろん、虐待関係のツライシーンだと、感情移入してしまって見ている方もシンドイ…けど、それが監督の狙いだろうし我慢しよう。
リアクションか…やっぱりそうだな『彼方のアストラ』でも書いたけど、良いキャラクターは良いリアクションをするし、良いリアクションが良いキャラクターを形作るよな…。
「キャラが立っている」というのは単に「個性的」ということではなくて「良いリアクションをする」ということなのかもしれない。
『本好きの下剋上』のマインにしても、個性的かと言われればそうではないけれど、リアクションが面白くて親しみを覚えてしまう。(WEB版=なろう版のほうが心情が描かれる分、リアクションに親しみを持てるかな)
リアルとリアリティ
リアル=リアルである(現実の再現度が高い)
リアリティ=リアルだと感じる(それっぽい、嘘だと感じない)
ということだけど(自分の中での基準は)『星合の空』はリアリティが高い。
…と書くと「都合のよい脚本だー」「こんな中学生いないぞー」と反論は来る…のだろうか。
まあ、誰かと論じているわけでもない。個人的なメモなのだ…。
リアリティを感じる原因は「監督が嘘をコントロールできているから」に尽きる。
宮崎駿も言ってたけど(確か「出発点」という本)嘘をいかに嘘だと思わせないかがアニメーションの肝だと。
そりゃー、アニメって嘘だもの!
絵が動いているだけだもの!
けど、そこに魂(アニマ)が宿っていると「錯覚」するのがアニメーション!
リアリティが高い=魂が宿っていると感じる、ならば『星合の空』は結構高いぞ、このレベル。魂宿ってる。
なんでだろ、と。
理由の1つがソフトテニスのシーン。
『坂道のアポロン』の演奏シーンや『ピアノの森』の演奏シーンに通ずるものがあるぞ、これは。
何が言いたいのか。
おそらくは実写動画を参考にした丁寧な作画(CGベースかもね)で、ソフトテニスシーンを見ているだけで気持ちがいい。
この「気持ちがいいシーン」が適度に挿入されることで、キャラクターたちが「その場にいる」感じ、ええと存在感が増していて、それ以外のシーンでも「このキャラたち…いるぞ!生きてるぞ!」と感じられる。
丁寧な日常作画こそが作品全体のクオリティを上げるというのは日本のアニメーションのお家芸で、アクション主体の作品ではベクトルが違っていて目指しづらい作戦である。
これをちゃーんとやってるのがご存知スタジオジブリ。
とはいえ、スタジオジブリのおかげで、最近のアニメ作品はいずれも日常描写に手を抜かなくなってきている。
ジブリだけの功績ってのもフェアではないか。
あとは京都アニメーションだよね、やはり。
日常芝居は派手さは無いのに高コスト。
ここに注力するのは勇気がいるぞ。
理由のもう1つがレイアウト(画面の構図)なのかな。
具体的にはキャラクターと背景の配置の仕方。
「この作品にとって重要なことはなにか」
それを監督は問い続け、画面に映す。
『星合の空』にとって重要なことはなにか。
赤根監督はこう言っている
アニメーションで時代を写したい。ただ単に、今の時代の面白おかしい事柄だけではない、特に若い子たちが抱える苦しみや悩み、そういったものをちゃんと表現するアニメーションを作ってみたいという気持ちが強かった
現実的な世界で、自分のプライドとアイデンティティを保ちながら生きている少年たちのドラマを作りたい
まこと勝手な解釈ではありますが、このコメントを読んで思ったのが「空気、気分を切り取りたい、描きたい」という意図。
じゃあ、それを表現するレイアウトってなんだ?
登場人物が立っている場所はちゃんと映そう。
カメラは基本的にちょっと引き気味で全体像を映そう。
人間関係、それも敏感で感情的な中学生たちだから、姿勢や距離感は丁寧に描こう。
レイアウトで「場所×立ち位置×姿勢」を適切に描き、監督の意図を浸透させることで、描きたいドラマが滲み出てくる。
「監督の意図が表現されたレイアウト」
ここに気持ちよさを感じているのかもしれない。
都合の良いキャラクターと脚本?
そうかもなー、とは思う。
こんな中学生いないぞ、とか。
母親はなにやってんだ、とか。
親父の蛮行は通報されて即アウトだろ、とか。
これらの指摘というか、引っかかる人がいるのも理解できる。
けれど、自分としては気にならない。
なんでだろうかと考えると、やっぱり「空気感」が優れているから。
生理的に心地が良いから、批判的な視点で見たくない、という気持ちが先立つ。
そりゃ、批判しようと思えばできるんだけど、自分から自分を不快にさせても仕方がない。
んで、見終わった後は空気感も断絶されてるので、批判的な見方をしてもいいのだけど、やっぱり批判するほどの問題を感じていない。
監督が描きたいのは「どうしようもなく力のない僕らが、それでも諦めずにあがいてみた日常」だと思うので、それ以外の部分は最低限を超えていれば問題ではないと思う。
主題(テーマ)に対して、真摯に向かい合って、最低限のフォローを入れつつ、やりたいことはドカンとぶちかます、そういう作り方が好み。
好み好み…まあ、結局は好みなのかも。
エンディングのダンス
触れないのも嘘だな、ということで触れてみる。
といっても、外野が事実関係にわーわー言うのは誰に対しても失礼なので、アノ辺の話はしない。
演出と作画の話だけする。
このアニメでダンスというエンディングが適切だったかは不明だけど、キャラクターごとの性格差が分かるダンスという意図は面白い。
それに作画が面白い。
世間的には元ネタダンスをそのまんま採用した、という意見ばかりが聞こえるけれど、演出と作画意図はそこにはない。
まず、ベースとなる「ちゃんとしたダンス」を用意する。
(ここで、ちゃんとダンサーを雇っていれば幸せだったんだけど)
そのダンスを「ふくよかな生徒会長が完璧にこなす」というおかしさを演出のベースにする。
そこから「それぞれのキャラクターの個性に合わせた崩し方を見せて、キャラクターに親しみを感じさせる」ことが意図。
そう「崩す」のが大事。
「崩したダンス」は元のダンスにはない。
ここに担当アニメーターのやりたいこと、魂を込めた部分がある。
単純に「踊らせてみたっす」ではない。
「崩してみたよ!」
ここが作画担当者がものすごーく情熱を持って頑張ったところ。
崩したダンスなんて、普通はやらない。
疲れてヘトヘトのダンスなんて、ネット上で見ることはできない。
ダンスをすれば疲れる、人によって出来不出来がある。
そんな当たり前だけど、参考になる動画がなくて「脳内で作り上げるしかない動き」を狙いとして達成したのが『星合の空』のエンディング動画。
この部分が無視されて論じられているのは悔しい。
もしこのブログを読んでいる人がいたら、そういう見方でエンディングを見てほしい。
この「試み」についてはガンジガラメの事件とは別に、きちんと評価してほしいと感じる。
関連リンク
■監督インタビュー(コミックナタリー)
https://natalie.mu/comic/pp/hoshiai
■監督インタビュー(TBS関連サイト)
https://www.tbs.co.jp/anime/hoshiai/interview/
■監督「赤根和樹(アカネカズキ)」経歴
https://w.atwiki.jp/enshutsu/pages/298.html