いまこそ『正解するカド』と野崎まど
今、野崎まどの時代が来ている
嘘である。
野崎まどの時代はずっと前から来ていたのだ。
デビュー当時から。
と、いいつつも野崎まどを知ったのはアニメ『正解するカド』からだった。
古参ファンからすれば「おっくれってるー!」であろう。
だいたいにして、カドが放送された時から怪しかったのだ。
すでに刊行され完結していてある程度の売上が見込める原作小説の映像化ではなく、いきなりのオリジナル脚本に抜擢されるなんて。
これはもう、出資者の中に野崎まどファンがいるに違いないのだ。
そしてそれは木下グループに違いないのだ。
『エロマンガ先生』と『ねこねこ日本史』に出資している時点で限りなく黒なのだ。
のだのだ。
なにが言いたいのか
野崎まどは不当に扱われている。
その不名誉を返上するためにこのメモを記するので…はなく、単に「なぜ正解するカドはこれほどまでに叩かれたんだろ」「そんで、なぜみんなは野崎まどを毛嫌いするのだろ」と思ったので、自分の中で整理したくなっただけだ。
野崎まどは不当に扱われている。
扱われるようになってしまった、カドの後半展開によって。
『正解するカド』とはどんなアニメだったか?
荒唐無稽で壮大なスケールのSFでありながら『シン・ゴジラ』同様のリアリズムによって見るものすべてを魅了し、中盤の「ワム」展開で度肝を抜き、最後の数話でファンをアンチに変貌させた嵐のような作品である。
どんなアニメかって?
第0話で零細企業の土地買収問題を巧みな外交手腕で解決したアニメだよ!
いや、冗談抜きにそういう話がある。
この地味な話が大層面白い。
社会派だねー、となんだか賢くなった気分で見ることのできる0話。
ワクワクしながら1話を見たら「この感じ『シン・ゴジラ』だ!」と0話と同様のリアリズムを追求しながら怒涛のSF展開を繰り広げる。
つかみはオッケー、あとは脚本の荒波にもまれようぜ、という作品。
ええと、つまり面白そうだぞと思わせ、実際に面白かった作品です。
しかしながら、前述通り物語が佳境に入ってからどんでん返しを超える大どんでん返しを行い、アンチを大量に生んでしまった。
その結果、不当に扱われるようになってしまったのである。
不当ではないのでは?
いや、不当なんです。
評価するカド
いつの頃からか、視聴者は「完璧な脚本」「完成度の高い脚本」を求めるようになってしまった。
ここで言う完璧とは「1話から最終話まですべてがハイクオリティで完璧」ということ。
『エヴァンゲリオン』のTV版が放映されていた頃は、もちろん完璧なんて考えたこともなかった。
『無限のリヴァイアス』にしたって、完璧かどうかなんて考えなかった。
色々なアニメが作られて来たものの、完璧な脚本は「映画」にこそ当てはまる考えであって、テレビでは「面白いといいなあ」と期待をもって眺める程度だった気がする。
それがある作品以降変わってしまった。
その作品は『魔法少女まどかマギカ』である。
虚淵玄が脚本を書いたこのアニメは、その完成度でもって「全話の完成度が高い」といういまだかつて無い高水準のテレビアニメを作り出してしまった。
それも、オリジナルアニメで。
このアニメの登場をもって、視聴者の評価基準が更新されてしまった…ような気がする。
すべての話数は連続して連結して無駄な話があってはならない。
少しでも全体のテンションを阻害する話は嫌われる。
1話単位でも完成度が高く、全話通しても完成度が高いのが当たり前。
このシビアな評価基準が世間にもたらされたことで、カドは不当に扱われるようになってしまったのである。
…なんのこっちゃ、である。
※もっと言うと現実社会の「成果主義」が作品視聴の態度に影響していると思われる
過程は無視される
まどマギの登場で評価軸が一変し、人々は「過程」を無視するようになった。
全話見終わった後の感覚が全てで、それまでの楽しさは排除されてしまう。
仮に全12話のうち11話が面白くても、最後の1話がつまらなかったら、その作品は「つまらない」と判断され、拡散されてしまうのだ。
まてまて、過去の自分の気持ちをちゃんと大切にしてみよう。
カドは全12話だ。
簡単にまとめると、以下のような内容になっている。(見たことある人向け)
1話:空港に超巨大立方体が出現する
2話:立方体の外に異星人が出てくる
3話:無限エネルギー装置ワム
4話:孤立する日本
5話:天才の折り紙
6話:おひっこし
7話:自分を自分が認識してる
8話:テレビを見るのは自己責任でお願いします
9話:魔法少女現る
10話:はるか昔の話
11話:服のセンスに絶句
12話:車とともに颯爽と登場!
うーん、こうやって並べると面白いな…
この抜粋タイトルを見ながら思い出してほしいが、8話までは抜群に文句なしに面白かった。ツイッターで「面白い!」とツイートしている人が多数いたことを覚えている。
問題は9話だ。
9話の展開がこれまでのリアリズムをぶち壊す衝撃的な展開だったため、視聴者は混乱した。
8話までが面白すぎたため、9話からの変化に戸惑い、好意は敵意へと変わった。
たしかに、9話以降は8話までとはベクトルが代わり、空想の度合いが強まってしまった。別の作品のようにも感じられる。
だが、カドの8話までは誰しもが認める面白さだったはずだ。
その気持ちを大切にして、この作品を評価してみてほしい。
8話までの面白さを考えついた人間、つまり野崎まどは本当にダメな脚本家だっただろうか。
本当にダメな脚本家は、あんなに面白い8話を作ることはできない。
あの8話までを評価したのなら、残りの話数の評価がなんであれ、野崎まどを無能扱いしないでほしいと願う…うーん、いったいどんな立場なのか。
来ますよ、野崎まどが!
いや、もう来ているのだ。
デビューの当時から。
『バビロン』は絶賛放映中で『HELLO WORLD』は劇場作品になった。
気づいているだろうか、この流れと同じ過程を経ている脚本家がいることに。
そう、虚淵玄である。
テレビ業界には「映像化されやすい脚本家、小説家」がいる。
貴志祐介だったり、万城目学だったり、池井戸潤だったり、有川浩だったり。
アニメなら虚淵玄だ。
ここに野崎まどが加わっていることに気がついているだろうか。
そう、野崎まどの時代は始まっていて、これからどんどん映像化されるに違いない。
なにせ、まだ『Know』が残ってるし『[映]アムリタ』もあるし『なにかのご縁』もある。原作には事欠かない。
つまり…?
野崎まどを毛嫌いせずに、じっくりと追いかけてみようじゃないか。
大傑作と出会う日も近い…かもしれない。
※ちなみに『Know』が一番劇場向けな気がする