今日は「や」の気分

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【感想】【小説】『ミニッツ〜一分間の絶対時間〜』

ミニッツ ~一分間の絶対時間~ (電撃文庫)

ミニッツ ~一分間の絶対時間~ (電撃文庫)

 ネタバレアンド「あんまおもんない」という感想をつらつらと。でも、こうなった理由が作者だけのせいとも思えず、いろいろ妄想してみたり。

 「一分間だけ相手の思考を読み取れる能力を持った主人公が、その力を駆使して生徒会長を目指す」というお話。ここだけ読むとコードギアスっぽい、あるいはデスノートっぽい頭脳戦を期待する。圧倒的な力を持つライバルか、あるいは同じような力を持った多数の人々か、あるいは俺つえーなのか。序章から受けるワクワク展開はそんなところ。

 事実、ヒロインのハルカとの勝負は「天才と馬鹿ゲーム」といういかにもカイジ的というか賭け狂いましょうなネーミング。そのあとの描写も、まあ期待に沿って描かれる。うむ、よいよ。

 なのに、急に物語がシリアスな方向に切り替わり、さらには超常能力バトル(バトルは言い過ぎか)になって終わる。なんと、終わってしまう。生徒会長どこいった。

 この読了感は覚えがある。面白いらしいと聞いて読んだ涼宮ハルヒの一巻か、あるいは谷川流の絶望系閉じられた世界だっただろうか。電撃イージス5は面白かった。古橋秀之シスマゲドンみたいな楽しさ。

 ハルヒの場合は物語のトーンとやってることに統一感があるので「思ったよりこじんまりしていたな」と肩透かしではあったものの、ミニッツのように「あれれ」という気分にはならなかった。

 あとがきを見るに、作者としてはやりきった感じで、すごく嬉しそうではあるけれど、なんだか妙にハイテンション。そりゃ受賞したからさ、とも思うけど。

 さて、ここからは完全に妄想。

 作者は「主人公が生徒会長になる」までを描いて投稿したんじゃなかろうか。そりゃ「特殊能力を用いた頭脳下剋上バトル」というコンセプトなら、その達成=生徒会長になるまでを描くのが普通。じゃあ、なんで描いていないのか。それはミニッツが続刊していることから推測する。

 つまり、編集部が
「おもしろいね!売れるよ!ていうか売ろう!とりあえず四巻まで出そう!」
「え、四巻ですか?嬉しいですけど、展開が間延びするんじゃ」
「このままじゃそうだね、だからヒロインを追加しよう。ギャルは必須だよね!」
「ギャルですか?頭脳戦に似合わない気が」
「だったらホントは賢いのに隠してるワケアリギャルにしよう!髪は金髪でいいよね?」
「いや、金髪にするとちょっと目立ちすぎるので…」
「(よし、追加を前提に話し始めたぞ)じゃあ黒髪でいいよ!クール系ギャルも人気だしね!」
「クールにするとハルカと被っちゃうので…」
「あ、そう!?じゃ、まかせるよ。ただし、エロくしておいてね!エロくないギャルとか存在価値皆無だから!」

 …のような?

 四巻はさておき、続刊を前提とした場合、ひとつひとつの巻で描かれる内容はコンセプトに対して薄味になる。色々なエピソードを詰め込んでも、クリティカルな出来事(物語全体を前進させてしまう)は挿入できない。薄味をごまかすためには、セカンドコンセプトを使うしかない。つまり「人間的に問題のある主人公が改善される」だ。改善のためには周囲の人々とのコミュニケーションが重要になる。ここに「周囲の人々も人間的に問題がある」としておけば、恋愛ものとしてたくさんのエピソードを追加できるし、ミニッツ能力を使って「ゲーム型攻略」が実現可能になる。

 とはいえ、だ。「特殊能力に目覚めた主人公による下剋上」なら、まず最下層まで落としてから能力を得て、そこから這い上がる物語にするのがセオリーだ。ミニッツでは主人公は既に一般生徒としては、上位ヒエラルキーに位置する。ミニッツ能力は使っているものの、根本的な頭の良さと人間観察力により昇りつめている。主人公は出自の不幸さはあるものの「生き抜くために能力を使う」というサバイバル精神には欠けているわけだ。であれば、コンセプトの消化方法が下手、ということになり、ミニッツという作品の出来の悪さ…いや、文章は上手いし、読んでいてそこまで不快感はないので、出来が悪いわけでは無い。

 ミニッツという作品の座りの悪さは、作者自身の「描きたいことはなんなのか」が突き詰められて考えられておらず、さらには編集の魔の手が伸びたことになるだろうか。

 こうして見ると『神のみぞ知るセカイ』は作者の頭の中が整理されており、本当に良くできた作品だったと思う。

 もしかして、主人公にミニッツ能力が無いほうが面白かったのかもしれない(作品の根幹を破壊する提案)

【感想】『星合の空』第12話(最終話)

 見終わった後は「あれ、あと1話残ってるんだっけ?」とネット上での放映予定を確認してしまった。まさかこれが最終話だとは…。Cパートが終わるよりも前に、あまりにラスト試合がスムーズかつ爽やかに進むものだから「いやいや、この作品でこんな普通な終わり方はないでしょう」と訝しがっていたけれど、作品自体の終わりを訝しがることになるとは。

 

 最終話を見終わった後の気持ちが、日が経つごとに変化していったので、それをメモしておこう。

 

見終わった直後:

 これで終わりというのはあまりに杜撰。構成が下手というレベルではなく、明らかに「投げている」が、ベテラン監督がやる内容ではない。まさか風呂敷を広げたまま、回収の予兆すら感じさせずに終わるなんて。何か事情があるに違いない。これでは作品を「評価」することすらできない。

 

監督のツイッターを読んだ直後:

 なるほど、当初は24話だったものを、12話でまとめろと言われてヤケになったのか。毎話「まとめきれるのか?」とハラハラしていたが、最初からまとめる気がなかったわけだ。そりゃ、のんびりと話が進むのも当然。

 いやいや、こんな投げっぱなしでいいのか。曲がりなりにもプロなのに、関係者の顔に泥を塗るような真似をしていいものか。アニメーターはもちろん、劇伴を提供したjizueや主題歌を担当した中島愛やAIKI from bless4(あってる?)に申し訳ないと思わないのか。今後「ああ、あの問題作の劇伴ね」とファンから言われるんだぞ。

 大人なんだから、プロなんだから、お客や関係者を無視するような真似はいかんでしょ。

 何が「この作品としては、こんな終わり方もいいのかも」だよ。

 

その次の日:

 普通に考えれば、まともな精神ではこんな暴挙はできないので、監督の精神は怒り狂っていたに違いない。何に怒っていたか?もちろん杜撰な打ち切り体制だ。怒りを作品に乗せるくらいだから、よっぽど腹に据えかねる仕打ちだったんだろう。絶対24話でいきますから、と進めていたにも関わらず簡単に「やっぱ12話でヨロ」と反故されたんだろう…けど、やっぱり暴挙は暴挙だよ。

 関係者はこんな終わり方に納得してるんだろうか?

 

その次の日:

 監督としては、この作品に思い入れがあったっぽいんだよね…。作品を「子」だと捉えたとき、どういう終わらせ方が幸せなんだろうか。当初24話だった話を、12話にまとめ直して完結させる?普通はこちら。100%の内容に対して50%の内容になるかもしれないけど、それを商品レベルまで持っていくのが監督の腕の見せ所。けど、商品ではなく「作品」だった場合、再構成は本当に幸せな結末なのか。

 むしろ中断してコールドスリープさせて、いつか復活するその日を待つほうが幸せなんだろうか。そうすれば完結しないけど「改造された我が子」にはならない。

 これもまた、作品にとっての幸せか…もしかしたら、スタッフも納得したのかもしれない。「いつか、完成させてやりましょうよ」と。

 うう…それなら、クラウドファンディングをすぐに始めてくれよ。その姿勢がなけりゃ「どうでもいーよ」って考えに見えちゃうよ。

 

 ま、それはさておき。

 

 この時代に、こんな「事件」が起きて、それを目の当たりにできるなんて、申し訳ないけどドキドキする。監督が更迭されて無難にまとめられるでもなく、テロリズムが完遂されてしまったかのような不穏さ。狙ってやったことではないだろうけど、アヴァンギャルドな感じは嫌いじゃない。一般向けに公開する内容ではないかな。予め「やべーことやるぜ」と告知したほうが良かったのでは。

 

 ま、それもさておき。

 

 Cパートの色彩設計はかなり珍しいものだった。ここまで紅蓮の夕空は目にしたことがない。現実では3年に1度くらい夏のある日に目にする雷鳴轟く不穏な空色。背景美術のディティールの繊細さも相まって、非常に面白い絵になっていた。この色彩設計で『ちーちゃんはちょっと足りない』をアニメ化してほしい。

 

【雑記】2019/12/22

東のエデン』第1話

 キャラデザがものすごく羽海野チカで、物語が頭に入ってこない。というのは言い過ぎなんだけど、羽海野チカ世界のキャラがコスプレというか、映画を撮っているというか、役作りをしている感じで、物語が「真実だ」という印象が薄れてしまう。

 羽海野チカのデザインが悪いのではなくて、羽海野チカのデザインをそのままアニメに持ってきたのがダメ…少なくとも自分はダメに感じてしまった。原案は羽海野チカでいいんだけど、アニメ用のキャラデザはもっと世界観のシリアス度合いにあわせて変えてしまってよかったのでは。お客さんも「羽海野チカの絵が動く!」なんてことは喜ばない気もするし。それは『ハチミツとクローバー』や『3月のライオン』で達成できていればいいのであって、オリジナルアニメで達成される必要はあったんだろうか。ていうか、誰が喜ぶのか。

 じゃあ、なぜ羽海野チカを選んだんだろう。一番「ええー?」と思うのは話題性。たとえば『3月のライオン』が売れていて、そもそも『ハチミツとクローバー』が売れていて、この人がキャラ原案となれば、相当数のファンを引っ張ってこれるに違いない、という良くないプロデュース。ファンベースを広げる、導入ハードルを下げる、女性からも見てもらえる、という点ではプロデュース方法は間違ってないけど、作品のクオリティには関係のない話。売れている少女漫画家をキャラ原案にすると、そのファンはついてくるのだろうか。志村貴子がキャラ原案を担当した『アルドノア・ゼロ』はどういうファンがついたのだろうか。

 さて、そろそろ当時のインタビュー記事を探してみよう。きっとキャラ原案に羽海野チカを選んだ理由が書いてあるはずだ。

(さがしちゅう…)

(みつからない…)

 みつからない、けれど公式サイトを見るに「あれ?」と思う。

https://juiz.jp/

 この絵だけを見るなら「羽海野チカ」っぽくないな、と感じる。邪推でしかないけれど「アニメのキャラ原案」という普段と違う仕事について真剣に向き合った結果「普段とちょっと違う画風」を目指したように感じる。パッと見の印象で『十二国記』などの挿絵を手掛けた(いや、この人については『ミスティック・アーク』の人と呼びたい)山田章博に近い塗り、テイストを感じる。古き良き海外童話的でありながら、和風の枯れを感じるというか。とにかく「目」について羽海野チカらしい「柔らかさ」や「優しさ」が抑えられているように感じる。ええと、つまり、すごく良い絵だと思う。

 なぜこのテイストでアニメ化しなかったのか…なぜアニメのキャラデザを「THE☆羽海野チカ」にしてしまったのか…せっかく原案で頑張っていたのに?まあ、勝手な妄想だけど。うーんもったいないなあ。もっと枯れた画作りにできたかもしれないのに。公式サイトの絵を作品全体のビジュアルにひっぱってこれたら、優しいのに悲しいというテイストになったかもしれないのに…ま、1話しか見てない人間が言うことではない。

 

 インタビュー記事は見つからなかった…過去に雑誌等でインタビューがあった形跡は発見したけど、さすがに本文は残ってない。ユリイカのバックナンバーとかで無いかな『東のエデン』特集とか。

 

サクラ大戦について

 買ってないのでやってない。けど、開発経緯とコンセプトが気になるから調べておこう。

https://dengekionline.com/articles/16919/

電撃プレイステーションの名越さんへのインタビュー。

サクラ大戦』がいまだに根強いファンが多いIPだから

 

作るとすれば、新しいファンを取り込めるような作品にしたい

 

旧来のファンに対して刺さるものをどのように作ればいいのかというのは、あまり理解していない

 

既存のファンに向けただけの作品になると、セールスもある程度は見えてしまいますし、

 

逆にぶち壊す部分をどのくらいまで許容できるならば作ってもいいのかなと

 

要素を加えることはいくらでも加えられますが、まずは加える前に変えるものから決めなくては

 

1つ1つ“『サクラ大戦』らしいもの”“『サクラ大戦』らしいけど変えるべきもの”という形でタグ付けした

 

龍が如く』シリーズでは長くアクションを手掛けていて、『新サクラ大戦』も人型のアクションゲームであるといえばそうですし

 

「やっぱり『サクラ大戦』ってこうじゃない?」と、決めつけた誰かが徐々に舵を切り始めて、方向が従来のものに戻りがち

 

賛否はあったと思いますが、基本的には受け入れてもらえたと思います

 

従来のバトルシステムに『サクラ大戦』らしさを感じていた方が、思ったよりもいなかった印象

 

いろいろな作家さんを受け入れたり、多彩な設定を受け入れたりとか、その要素をずいぶん昔から持っている作品

 

いろいろと変えましたが、根っこの部分は変わっていないわけです

 

「『ペルソナ』がおもしろい」が広まったから『ペルソナ5』が売れた

 

それと同じで「『サクラ大戦』がおもしろい」という、短い動機付けがたくさんの人に伝播していくことが、今の一番の願い

  ほうほう、なるほど。新旧両方のファンに売りたいという思いがありつつも、「新規ファンの獲得」に舵を切ったわけか。旧作ファンの期待値を下回らないように、守るべきところは守り、攻める(変える)べきところはずんずん変えていくのだ、と。

 難しいな、自分ならどうしただろう。

 旧作ファンだけが喜ぶタイトルを目指すだろう。ただし「魂」以外は考え直す、という感じで。新規ファンはゲームを販売するまでは姿かたちが見えないけど、旧作のファンは見える。シリーズの名前を冠するなら、そのファンたちが「これだよ、これ」と大喜びするタイトルを目指す。そしてゲームとして「めっちゃ面白い」内容であれば、自ずと新規もついてくる。

 いや、面白いだけじゃダメだ。遊ぶ前から「買う価値がある」と伝えないと、初動が弱い。初動が弱いとジワ売れになってしまう。日本の場合はジワ売れは本当にジワ売れなので、続くプロジェクトに影響が出てしまう。

 遊ぶ前から「買う価値」があるように思わせるには宣伝、つまりプロモが重要。「あのサクラ大戦が復活」というだけではキャッチーさにかけるので「よく知らないけどこのゲーム面白そう」と思わせる必要がある…から『新サクラ大戦』は戦闘部分を「アクションゲーム」にしたのだろうか。シミュレーションゲームの購入層はアクションゲームの購入層に比べると少ないし、最初から間口を狭くする方向は避けたのだろう。

 うーん、その時点で旧作ファンからすると「変えてはならない部分」なんだよな…でも、似たような始動だった『戦場のヴァルキュリア4』の売上が芳しくなかったことを踏まえると、アクションゲーム化は成功だったのかもしれない。

 でも、違うんだ。サクラ大戦シミュレーションゲームじゃないんだ。戦闘だけに限って言うと『サクラ大戦3ゲーム』なんだ。『サクラ大戦3』で完成した「自由に歩ける戦術バトル」はとても良くできたシステムだった。そして「誰でもクリアできる難易度」も重要で、バトルパートが味付けではあるものの「遊んでいて楽しさしかない絶妙な味付け」だった。

 サクラ大戦は「アドベンチャーゲームシミュレーションゲーム」というように、2種類のジャンルが独立して存在しているように揶揄されるけれど、実際は「キャラクターたちと行動を共にする隊長シミュレーター」としては、両方のジャンルを混ぜることで達成されていた、とても優れたブレンドだった。確かに「アドベンチャーゲームシミュレーションゲーム」だった。

 そう、サクラ大戦のコンセプトは「太正桜に浪漫の嵐!」というだけでなく「太正浪漫溢れる隊長奮闘記」だった、と思う。遊んでいる時「自分は大神隊長として、この世界に入り込んでいる」と錯覚できた。このコンセプトだったから、隊員の気持ちを探ってケアしようと考えるし、戦いにおいても帝都と隊員を守ろうと試行錯誤した。

 『新サクラ大戦』はこのコンセプトを守っていたのだろうか。買ってないから分からないけど…「隊長の奮闘」を表現するためにアクションゲームというジャンルを選んだだろうか。というか、こういう考え方が「サクラ大戦はこうじゃないとダメ」という古い考え方なんだろうけど…さ。

 とかうだうだ考えるのは、ペルソナ3の開発経緯に比べると、あまりに旧来のファンを軽視して、マーケベースになっている気がしたから。

https://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/191030a/2

 ペルソナ3のディレクターである橋野桂さんへのインタビューだけど、発想の手順がとても正しい。自身が腑に落ちるまで徹底的に考え、咀嚼し、自分なりの形に落とし込む。幅広いユーザーに向けるために「キャッチーな記号」でデコレーションする前に(最終的にはデコレーションは重要)根幹部分で「誰もが共感できるものとは」と追求している。

 それはペルソナだからできたことだろうか。サクラ大戦という枠組みでは、そもそも無理難題なんだろうか。「人はなぜ生きるのか」というテーマは、あらゆる人間にとって価値を持つ問いかけだ。サクラ大戦は「なぜ少女たちは平穏を捨てて戦うのか」というテーマが存在していた。最初は「能力を持ってしまったから」「死に場所を探して」「なんとなく」だったものが、帝国華撃団での生活(プレイヤーとの!)の中で意味を発見していく。「人はなぜ生きるのか」「愛する者たちのためだ」という回答は確かに陳腐かもしれないけれど、力強い返答だった。そして、サクラ大戦シリーズは物語の終盤で帝国華撃団を危機に陥れ大神隊長に「なぜがんばるのか」と問いかけてきた。それに対してユーザーは「愛する者たちのためだ」と恥ずかしながらも胸に秘めた思いを敵の大将に対して告げていた。このストレートで泥臭い体験が、サクラ大戦というゲームを名作にした根底だと思う。広井王子あかほりさとるだからこそ生み出せた「王道」の心地よさだ。

 うーん…といっても、これはプレイしないと分からない部分だよな…これだけじゃ売れない…。コンセプトは「隊長奮闘記」でありつつ、一見して購入したくなるキャッチーさを付けられないものか。士官学校から始めるとか、学生生活にしてみるのはどうだろう。つまりペルソナ化するということ。軌跡シリーズもそちらに舵を切っている。でも、そうすると『戦場のヴァルキュリア』になって、それじゃ売れないのか。とはいえ、ヴァルキュリアは「架空戦記」というフォーマットなので、ユーザー層を狭めてるんだよな…ミリタリー色が強くて、面白いけどファン層が狭い。じゃあ「大正時代シミュレーター」という方向はどうだろう。グランドセフトオートとはいかないまでも『L.Aノワール』くらい(わーお、大変だ)の広げ方で…。

 大正時代シミュ✕隊長奮闘記にして、ペルソナのように1年を通して隊員や街の人々との絆を深めていく。もちろん、大正時代ならではの遊び、ベーゴマや活動写真、ブリキ製玩具や…これは明治時代か?『大正野球娘』が好きなんだよな(小説版)…ああいう洋食屋や野球とか…おお、遊びたくなってきた。

 

 『新サクラ大戦』…買わないとだな。

【感想】『星合の空』第10話

※あとで体裁は整える

 残り話数はわずか。大会が始まり、テニス部の活動もいよいよ佳境に入る。前哨戦となった2試合は、序盤こそ勝利の予感がするものの、実力の差が表れる後半になると崩れだす。2つのペアは結局勝てないけれど、何か確かな絆と、ほんの少しの自信を身に着けて、見えない明日から身を守る術を得たように思える。

 マキとトウマのペアは、飄々としているマキに対してメンタルのもろいトウマとあって、どうにも雲行きが怪しい。どうせ勝てない、勝つことだけが重要だと呟くトウマは、この試合で何かを掴めるのだろうか。

 なぜトウマは勝ちにこだわるのか。母親との確執は、これまでは仲が悪いだけと思わせておいて、どうやらもう少し根深い因縁がある様子。察するに連れ子か養子のように思えるが、いかんせん他のメンバーの境遇も似たようなものなので、トウマならではの特徴となりづらい。すべてのキャラクターが別の過去を持つ必要はないけれど、これまで虐待やらジェンダーやら盛り込んで差別化しているので、トウマも「ならでは」の過去を持つのだろう。

 残り話数が少ないなか、この物語はどういう着地を目指しているのか。最初はエンタメ的な着地、提示された問題の解決、あるいは破局を目指しているのだろう、目指してほしいと思っていた。ただ、作品が「アニメ的な」ではなく「小説的な」決着を求めているなら、必ずしも劇的なおしまいは迎えないのかもしれない。たとえば藤野千夜の作品のように、ほんの少しの変化が描かれれば、それでキャラクターたちにとっては大きな勝利なのかもしれない。テニス部での活動がなければ仲間たちとの絆と結ばれず自信を持つ機会も訪れなかった。その小さくとも確かな塊が、やがて訪れる大人への階段を昇るだけの力となる。テニス部が復活するきっかけとなったのはマキだから、彼は主人公なのだけど、テニス部の面々、あるいは周辺の人々の誰が欠けても今の状況にはつながらなかったのかもしれない。そうであれば、主役とその他、メインとサブといった括りは陳腐でいかにも分かった風で、愚かしい。エンタメとしてはどうかと思うけれど、キャラクターの人生をちゃんと描こうとしたら、こういう物語になるのかも知れない。

 毒親、モンペとイヤな大人(しかも自分の親!)がたくさん登場する作品だけど、現実の「問題のある親」はこんなものではないだろう。親たちの虐待の末に殺されてしまった子どもたちのニュースなんて、毎年目にする。モンペの話なんて、ニュースにならないだけでもっと多くの事例が報告されているのだろう。(なにせ除夜の鐘にクレームが入る世の中だ)確かに作中に多くのイヤな大人が集まりすぎではあるけれど、その中身は案外ライトに描かれている気もする。『僕だけがいない街』の加代(かよ)のほうが、もっと辛く当たられていた気がする。

 さて、星合の空はどのような結末を迎えるのだろうか。

【感想】『星合の空』第9話

『星合の空』第9話

ふうむ、監督は心を病んだのか?

確かに今まで「親と子の問題」について描いていたが、それにしても詰め込みすぎだ。残り話数のことを考えると、ただ子どもたちが可愛そうで、親たちがバカのように見えるだけで、何も解決しないまま最終話を迎えてしまうのではないか。

もっと恐ろしいのは、実際にDVを受けている子どもたちからすれば、そのことをモチーフにされるだけでも憎らしいだろうに、ささっと適当に解決される可能性があることだ。ここまで風呂敷を広げておいて、残り話数でキレイに収められる気がしない。収めるなら、試合を通じて、突然親子関係が修復されるしかない。けれど、そういう話になってしまったら、駄作になってしまう。親子関係のリアリティを描こうとチャレンジしたはずなのに、その解決がご都合主義では目も当てられない。

今のところ、解決の糸口は見えない。どうやって着地させるのか。

 

保健室のシーンでは年甲斐もなく不安になってしまった。バビロン7話では「まあセブンもあるしな!」と達観していられたのに、幼い少女と問題をかかえた少年というのはどうにも心臓に悪い。性的な事件につながらなくても、何らか少女に傷をつけるのはやめてほしい。バビロンのように「このアニメはひどいことをします」と宣言されていない分、唐突に恐ろしげなことが起きるのではと心拍数があがってしまった。

 

鬼滅の刃』1話と2話と3話を見て

台詞が多い。なぜだ。

まるでワンピースを見ているようだ。

絵だけで成立する絵力があるのに、なぜ状況描写を主人公の心情で事細かに説明させるのか。不安なのか。編集の入れ知恵か。それとも読者にとっては「こう考えていますよ」という確かな正解が提示されていないと不安なのか。描写だけじゃ意味が分からないのか。

怖い、それなら手を震わせたり、歯の根が合わない様子を描けばいい。

なぜ「怖い…!体が竦んで身動きが取れない!まるで全身が石になったみたいだ!逃げなきゃいけないと分かっているのに、それができない!」みたいな表現なのか。

2話で鬼が「くそ、伸ばした髪が絡まって」的な台詞を言うのには苦笑してしまった。

台詞が悪いというわけでもなく、ただ多くて長い。

絵がうまいだけに、何をそんなに説明する必要があるのか分からない。

 

でも、もしかしたら今はこの「説明する」台詞のほうが親しみやすいのかもしれない。あるいは1コマ内での情報量が多いほうがお得に感じるのかもしれない。あるいは描写に対する読解力が落ちているのだろうか。

考えたことがなかったが、実は「説明的な」漫画、あるいはコンテンツが増えていたりしないだろうか。多くの読者がSNSで自身の心情を語るようになって、むしろ心情や独白のない作品は不自然に感じられるのかもしれない。

 

となると、作品は「演劇的」になっていく。

 

うーん、どうかな。

ドクターストーン』が説明的なのは作品の方向性だし。

原作を読んだことはないけど『呪術廻戦』も説明的だったら、少なくとも今のジャンプは説明的な作品を推し進めていることになるのかも。

なんだろうな『波よ聞いてくれ』だと台詞の多さは一切気にならないんだが。

2019/12/06:雑記

『星合の空』について思うこと(1)

好みの作品だけど、色々と思うところはある。演出と作画に対して、脚本というか「台詞」が少しくどい気がする。語りすぎと言ってもいい。

この作品では問題のある親(なぜか母親だらけ…マキの父親を際立たせるためか)が多く登場する。その台詞が妙に直接的ななじりで、ステレオタイプに感じられる。

たとえば8話、モンペと友人から言われるある登場人物の母親。彼女は息子を大事に思うあまり(もちろん、大事にしている「つもり」だが)部活動について問題視し、クレームを学校に入れて部活動を妨げてしまう。

その際のやりとりがこうだ。

 

「日曜日に部活の集まり? 何をするのよ?」

「聞いてない! だいたいバーベキューなんて、部活動と関係ないでしょ。そんないい加減な集まり」

「ロクな子たちじゃないでしょ? ソフトテニス部の子たちなんて」

「それに、お酒も飲めないくせにバーベキューなんて、楽しいわけないでしょ」

「だいたいね、今の時期からちゃんと勉強しないと高校受験のとき大変なのよ?」

「もう2年なの!」

ソフトテニスなんてやっててもいいことなんてないし、時間の無駄。さっさとやめて」

「一度だけ、練習試合を観に行ったけどね。顧問の先生もいい加減だし、部活の子たちもヘラヘラしちゃって試合もすぐに負けて。アンタなんか全然活躍できなくて。わたし恥ずかしいったらなかった。」

「じゃあ次は? 勝てるの? バーベキューなんてのんきなことやって」

「言うことを聞きなさい!」

「アンタが心配だから言ってるのよ?」

「わたしはアンタの親なんだから!」

 

子どもの自主性を軽んじて、自身が望む姿にコントロールしようとする親の姿が描かれている。同時に、息子が所属しているコミュニティに対して難癖をつけることで、そこからの離脱を狙っている。

それを描くために、ここまでの台詞量は必要だっただろうか?

 

畳み掛けるように難癖をつけてくる親に対して、不満が爆発するという意図があった。だから、母親は饒舌に語る必要がある。とすると、台詞が多いこと自体は問題ないのかもしれない。ぽつりぽつりと反論して、最後に爆発するのも悪くはない。

ふむ…台詞量に違和感があるわけじゃないのか。

母親の言動が支離滅裂だからか?

 

親が自分の価値観を息子に押し付け、息子がそれに抗う。

価値観を押し付ける=部活批判、コミュニティ批判、顧問批判、才能否定、自主性否定

 

ああ、そうか。

バーベキューのくだりの「お酒も飲めないのに楽しいわけない」部分が不自然に感じられるのかも。理不尽なことを言う、という意図なのかもしれないが共感しづらい台詞だった。ステレオタイプな母親像を描くために、わりとそれっぽい台詞を選択しているにも関わらず、この台詞だけ妙に個性的だ。

「バーベキューなんて、飲み会に誘う上司と同じ、短絡的なのよ」

みたいな台詞だと共感できたかもしれない。

 

『星合の空』について思うこと(2)

マキがユウタと会話するシーン。ここでのやりとりが「監督の考えをキャラに言わせてる」という感想を目にした。自分はそこまで気にならなかったが、確かにメッセージ性の強い、やや露骨とも感じられるシーンだった。

では、どういう脚本だったら「うまい」と思われるんだろう?

自身の性意識に思い悩むユウタに対して、知り合いとの付き合いを交えて寛容な態度を示すマキ。

・自分の身近に性について悩みを抱えた人がいた

・自分は、その人を好意的に思っている

・他人にはなれないので完全に悩みを理解することはできないが、想像することはできる

・ユウタの悩みについても間違っているとは思はない

これを台詞ではなく「行動」で示せばよかったのか?

あるいは、もっと自然な台詞だったらよかったのか?

志村貴子なら「ニトリくん、かわいい! すっごくかわいい!」の一言で色々な問題をすっとばすんだろうな。

あるいは「へ? 似合ってるけど?」「似合ってますか…」「うん、あたしより可愛いくらい」みたいなやりとりで「自分がやりたいことをやって、しかもそれがふさわしいならなんの問題があるのか」と感じさせる気がする。(ニトリくんとアンナちゃんの会話なら)

千葉さんなら「問題ない! だって、すごく似合うんだもの…(口元を抑えて赤面)」って感じだろうか。

ニトリ「千葉さんは、思ったことをはっきり言うね」

千葉「ごめんなさい…でも! 本当だもの!」

ニトリ「…ありがとうございます」

千葉「ううん! 私の方こそ嬉しい! 私…今日のことを一生忘れないわ…」

とか言いそう(長い妄想だなー)

 

人の悩みに共感し、理解を示すってのはどういう行動で表現できるのだろう。

 

鬼滅の刃:1話』について

妹を背負って丸太を飛び越えるシーンのアニメーションがすごすぎる。

うつのみやさとるを思わせる立体感のある動き。

肉体の重さ、妹の重さ、疲れ、急いでいる様子、雪の深さ…すべてが統合されたアニメーション。

CGかもしれない…。

でも、あのシーンだけCGにするなんてことあるか?

カメラが遠いから、キャラが小さいときはCGにする、という方針かもしれん。

すごすぎる…美しい。

 

鬼滅の刃:2話』について

落とし穴から這い上がるシーンのアニメーションがすごすぎる。

これもカメラが「丸太を飛び越える」シーンと同じくらいの距離。

CGなんだろうか…うますぎる。

鋼の錬金術師』アニメ版(オリジナル脚本が多いほう)の吉成鋼パートを思わせる細かい枚数で立体的な空間移動。

戦闘シーンのアニメもすごいんだけど、こういう細かい部分のほうが燃える。

 

【感想】星合の空:第8話

ここに来て、ようやく理解した。なぜこの作品が好きなのかを。
それは…志村貴子だ!
放浪息子』のあの雰囲気、空気感…それがこの作品にはあるんだよ!
 
中学生たちの揺れ動く繊細な心を、地に足のついたリアリティを交えつつ、そのセンチメンタルさたるやグサグサと読者の心にエモーショナルな共感を巻き起こすあの志村貴子の。
 
ということは、だ。
登場人物がばばーっと出てきて、そのいずれも何やらスタメンはれそうな魅力を持っていて、作者のフォーカスが各話ごとに変わるってこと。
志村貴子の作品は、主人公はいるものの、どうやらその主人公が物語の軸ではない。
「今回の話はこの子の話だよ~、それからこの組み合わせの話にもしてみたよ~」という自由奔放さ。
ひええ、ニトリくんがほとんど登場しないけど、面白い…!
となる。
 
『星合の空』はマキを中心として、その周囲を旋回する衛星である生徒たちを描く。
マキにフォーカスする話もあれば、生徒にフォーカスすることもある。
それに、太陽系全域というか、マキを含めた部員全体を俯瞰することもある。
 
この物語に主人公は存在する。
それはマキだ。
けど、主人公としての役割は「話の中心にいる」ってことじゃない。
「誰かとつながってる」ってこと。
そのつながりに「相手のことを理解するんじゃなくて、想像する」って考えがある。
 
なるほどなー。
「マキとトウマの活躍が少ない」って思うのは間違っていたのかも。
「マキと誰かの会話をもっと見たい」って思ったものな。
 
もしかしたら、物語の最後でマキが失うものは、マキ自身なのかもな…。
 
それはそうと。
 
今回もミツエさんがもじゃかわいい。
皮肉屋だけど気骨があって、度胸もある。
でも、そういう虚勢の裏には、当然しんどさがあるのよな。
 
さて、今回の話、レイアウトと演出がすごくよかったので、スタッフに感謝しなければ!
誰がどういうキャリアか調べずに書いてますよー。(監督は除く)
 
脚本は監督でもある「赤根和樹」さん。
絵コンテは「加瀬充子」さん。
演出は「名和宗則」さん。
演出補佐は「田中タカユキ」さん。
 
スタッフについて調べる前に、自分が感じたことを書いておこう。
 
・学校の中の色々な場所、角度を映していて「学校を舞台とした作品」という感じがすごくでていた
・背景さんがんばった~
・窓が印象的。エフェクトを強く炊いているわけではなく、じんわりと休日の昼間っぽさが出ていた
・学校の中の窓も印象的。ただの白と言えばそうなんだけど、生っぽさを感じた
・部屋の中のレイアウトがぎゅぎゅっと狭い感じがなんだかリアルに感じた
・狭い空間で自分の価値観を話し合う様子がとても良かった
・2人が立っているのではなく、座っているのが良かったのかも。普通、立って話はしないよね
・マキがミツエさんに顔を寄せて、ミツエさんが怒りつつ恥じらうのがよかった!(よかった!)
・ミツエさんが美術準備室?を訪れてからの一連のシーンがレイアウト、作画ともに好み(うまい、というより好きなんだ)
・なんだろう…手と指と骨にこだわりを感じた
・ミツエさんが肩をすくませたとき、ゆるやかな直線で処理しているのいいなあ…ジブリ味を感じる
・ミツエさんがスカートを握りしめたときの手の形、指の形がきれいだな…
・この感想を書くときに、アマプラで無音声で同シーケンスを流してみたけど、引き込まれるってことは演出がいいのでは!
・最後、いつもの場所でたそがれているミツエさん、そこに駆け寄るマキ…やや遠いカメラがいいなあ!
・なんか、このカットだけで泣ける…なんだろ、やるドラ味というかI.G味を感じる(味、味うるさいな…)
・風景の中に人物がいる、その距離感が現実ではあたりまえで…あとは若干右下に向かって斜めなのがいいのかな
・なんだか劇場版のようなレイアウトに感じられた
 
…よし!
あとはスタッフの経歴を調べてエールを送ろう!
 
まずは「加瀬充子」さん!
ほうほう「かせあつこ」さんね、あつこって読むのか…げえ!なんだこの経歴!
初演出が『闘将ダイモス』って、どんだけベテランだ!
日本で初めてロボットアニメの演出を担当した監督だと!
パトレイバー』の絵コンテね…ほうほう。
『ママは小学4年生』の絵コンテと演出ね…ほうほう!
アイアンリーガー』に『リューナイト』…ははあ!
…うーむ、その先も経歴がすごい。
さすらいの女監督(絵コンテ)ってところか。
 
いきなり大物が登場したが、次だ!
名和宗則」さんだ!
「なわむねのり」さんね…げええ!
『EVE ZERO』のアニメ作画監督やってるじゃん!(そこかい)
どちらかというと萌え作品を監督することが多いけど…それは絵がうまいからだろうな。
柔らかい線をかけないと、萌えやエロは描けないものな…たぶん。
魔法遣いに大切なこと』の作画監督もやってるな…そりゃ、空気感があったかくなるわ。
 
よし…最後だ!
「田中タカユキ」さん。
ほうほう…ははーん。
ヒートガイジェイ』で赤根監督とつながったのね。
ふむ『ノエイン』もやってるか…へえ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』もやってるぞ。
あとは『プリキュア』もやってるから…日常描写は得意とするところか。
 
スタッフの皆様、おつかれありがとうございました。
と勝手に書いておく。
誰かが作らないと、作品はこの世に生まれないのだ…。
それから、美術準備室のシーケンスを担当したアニメーターのかた、ありがとうございました。